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#57

原爆が奪った女学生315人の青春~アメリカ極秘文書に隠された真実~

また広島に“あの日”がやってきた…。昭和20年8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾は、広島市の上空600mのところで炸裂。その年のうちに14万人が亡くなったといわれている。
被爆後の広島・長崎で、米軍が日米の医学者を動員して実施した「合同調査」。その調査団による報告書『原子爆弾の医学的影響』が近年ネットで公開された。全6巻ある報告書のうち、実は第6巻のみが、長らく極秘扱いされていた。その極秘文書の中に、広島の“とある女学校”の原爆死傷者研究が書かれていた。その名前は「安田高等女学校」。原爆で被害にあった学校はいくつもあるのに、なぜ「安田高女」のみが特筆されたのか? そこには一体何がかかれていたのか?
あの日、安田高女の生徒たちは、市内5カ所に分散して勤労奉仕に従事していた。午前8時15分、突然閃光(せんこう)が走り、続く大爆発で、校舎も寄宿舎も一瞬にして倒壊。あたり一面火の海となり、跡形もなく焼失した。爆心地のすぐ近くに動員されていた1年生のほとんどが即死。また、各工場で勤労奉仕していた女学生を含め、合わせて315人もの生徒が、かけがいのない命を失った。さらに、生き残った人の多くは、友や肉親を失い、自らも傷つき、放射線の後遺症に苦しんだ。
終戦から間もなく、小学校の講堂を借りて授業を再開させた安田高女の生徒たちのもとへ、合同調査団がやってきた。かろうじて生き残った生徒たちへの被爆調査は、米軍の“ある戦略”上、実は重大な意味を持っていたのだ。私たちは、被爆2カ月後の広島・長崎で撮られた貴重なカラーフィルムを入手。そこに写されていた映像から読み取れる調査の実像とは…。
原爆報告書に、個人名は登場しない。数字だけで表現される被爆生徒たち。しかし、1人1人に家族がいて、かけがいのない青春が存在していた。戦後72年、奇跡的に生き残った方々が語る衝撃の事実と、米軍が総力をあげて行った「合同調査団」の真の目的は何だったのか、被爆者の資料が冷戦下にどう扱われたのか追跡取材。隠されてきた「原爆報告書」の謎に迫る!