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#115

堀越二郎

ゼロ戦の設計者として、映画『風立ちぬ』のモデルにもなった堀越二郎。戦時中、開発に心血を注いだゼロ戦は、終戦時に1機も帰還することはなかった…。戦後、堀越は平和のために力を尽くし、日本初の旅客機「YS‐11」が完成。平和の翼を広げ、多くの人々を乗せ日本と世界を繋いだ。堀越らが設計したゼロ戦で培われ磨かれた日本の航空機技術は、今現在、多くの人々の豊かな暮らしや経済発展のために使われている。日本の航空史を振り返るとともに“人間・堀越二郎”の素顔に迫る。
 
●運命的な年に生まれる
ライト兄弟の飛行機が初めて飛んだ1903年に誕生した堀越は、少年誌の物語を通して飛行機に取りつかれる。東京帝国大学工学部航空学科に進み、首席で卒業。三菱内燃機製造に入社し、ヨーロッパ、アメリカで航空機の最先端技術を学んだ。
 
●ゼロ戦の誕生
日本が戦争に突入すると、長距離の飛行、時速500km超の速度、敵機を撃ち落とすための重装備など、海軍からあまりに過酷な要請が…。堀越は仲間が諦める中、失敗と研究を重ね、ついに世界最高水準のゼロ戦を完成させる。しかし、日本は戦争が進むと米軍の最新鋭機の前に劣勢が明らかになり、ゼロ戦は特攻機に使用されることに。やがて敗戦。大空に飛び立ったゼロ戦はとうとう1機も戻って来なかった。
 
●日本初の旅客機「YS‐11」
戦後、徐々に規制が解除され、ようやく国産航空機の製造が認められる。堀越ら軍用機に携わった一流の技術者が集結し、10年がかりでようやく運用を開始。戦争の道具でなく、平和のための飛行機は、40年以上にわたり世界の空を飛び回った。
 
●飛行機に注いだ人生
堀越は、その後、大学で教壇に立ち、国内外での飛行機事故の原因究明に尽力するなど、後進の育成と航空業界の発展に力を注いだ。堀越の技術と魂は、「MRJ(三菱リージョナルジェット)」などに、今も脈々と受け継がれている。