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#119

大島渚・小山明子

戦後の映画界に現れた大島渚は、映画『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』など、数々の傑作を手掛け、日本映画の黄金時代に名を連ねた。小山明子もまた、女優として常に第一線で活躍するも、結婚生活の後半は夫である映画監督・大島渚の介護に明け暮れた。今回、この2人の波乱万丈な映画人生と夫婦愛の軌跡をたどる。

●映画人生の始まり(大島渚)
6歳の時に父親が急死し、大島は母親の実家がある京都へ移り住む。町家で暮らすなか、苦学の末に京都大学へ。学生運動に情熱を傾ける一方、劇団を立ち上げ、演劇活動にもいそしんだ。大学卒業後、松竹へ入社。異例の若さで映画監督デビューを果たす。

●人生を変えた出来事(小山明子)
高校を卒業後、洋裁学校へ通った小山はファッションショーに出演。これがきっかけとなり、松竹にスカウトされ、女優の世界に進む。思いもよらぬ出来事は続き、小山は撮影所で出会った男性と恋に落ちる。それが後の夫となる大島だった。
●新時代の映画(大島渚)
監督デビューの翌年、映画『青春残酷物語』『太陽の墓場』が立て続けにヒット。時代や世相の暗部を描き、話題をさらう。大島作品のヒットがきっかけとなり、篠田正浩、吉田喜重らと共に“松竹ヌーベルバーグ”の旗手として大島の名は世に知れ渡る。

●独立騒動(大島渚・小山明子)
大島が監督を務め、小山も出演した1960年製作の映画『日本の夜と霧』。当時の社会情勢を反映した大島の意欲作だった。しかし公開からわずか4日、大島に無断で上映が打ち切られてしまう。松竹との関係は泥沼化し、大島は独立。小山も後を追った。

●復活と躍進(大島渚・小山明子)
松竹を辞めた2人は、プロダクションを設立するも業界から干されてしまう。独立の直前に結婚した2人の門出は経済的にも困窮し、波乱の幕開けとなった。その後、息を吹き返した大島は1971年、映画『儀式』でキネマ旬報の1位を獲得。国内での評価を高めていく。

●世界の大島(大島渚)
映画『愛のコリーダ』で世の話題をさらうと、1978年、映画『愛の亡霊』でカンヌ国際映画祭の監督賞を獲得。かつて5年で360通に及んだ小山との手紙の中で、世界に通用する監督となってカンヌへ連れて行くと誓った大島。ついに世界に名がとどろく監督となった。

●国際的な映画監督(大島渚)
1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』。ビートたけしや坂本龍一、デビッド・ボウイなど異色のキャスティングで話題に。初めて映画音楽を担当した坂本は、英国アカデミー賞作曲賞を受賞する。その後も海外と積極的に関わり、映画を作っていく。

●突然の介護生活(小山明子)
1996年、大島がイギリス・ロンドンの空港で脳出血に見舞われる。仕事中だった小山はすぐに駆け付けられなかった自分を責める。介護をしながら苦しい日々を送り、重度のうつ病に。何度も死を考えていたある日、見知らぬ女性の一言に心の闇が晴れていく。

激しい怒りと愛を作品に込め、組織や権力と戦い抜いた映画人、大島渚。病に倒れた夫・大島を17年間にわたり献身的に介護した、小山明子。昭和の映画史を名作と共にひもときながら、夫婦の姿を浮き彫りにする。