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エンタメ・音楽
佐賀県佐賀市 佐賀の湯処こもれび
#171
サウナを愛でたい
2024年4月1日(月)よる10:30~10:54
三菱鉛筆 後篇
#48
ウェルビーイング、みつけた
2024年4月1日(月)よる8:54~9:00
スポーツ
ホウライカントリー倶楽部(前編)
#115
極上!ゴルフ場探訪
2024年4月1日(月)よる10:00~10:30
シーズン14 1回戦 マッチ4
女子ゴルフペアマッチ選手権
2024年4月1日(月)よる9:00~10:00
報道・ドキュメンタリー
地球クライシス ~気候危機 転換への道しるべ~生態系の異変!最前線&再エネの未来 第9弾
地球クライシス ~気候危機 転換への道しるべ~ 生態系の異変!最前線&再エネの未来 第9弾
2024年 3月31日(日)よる9:00~11:00
「VR GEISHA GAMES」SXSW SYDNEY 2023
日本伝統の「花街文化」 VR体験を通じて世界へ発信!
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ゲスト×インタビュアー 小室哲哉(音楽プロデューサー)×春風亭小朝(落語家)
インタビューの場所は、都内のスタジオ。小室がいつも新たな音楽作りに取り組んでいるというこの場所で、落語家・春風亭小朝がインタビューに挑む。 小朝からの最初の質問は、今、一世を風靡(ふうび)している「ピコ太郎」について。1990年代、“ダンス”と“レイブ”という新たなジャンルを確立し、音楽界を席巻した小室。その解答から、ヒット曲を作り出す戦略やこだわりが見えてくる…。 1984年に宇都宮隆、木根尚登とともに、3人組ユニット“TMネットワーク”としてデビュー。その年はちょうど、YMO(イエローマジックオーケストラ)が解散した翌年。3人組のユニットは、いつの時代にも需要がある…YMOが抜けた後の隙間を狙った小室の読みは見事的中。デビュー当時から、小室は“売れるための戦略”にこだわり続けていたという。 1992年、綿密なリサーチの末に目を付けたのが“ダンス”と“カラオケ”。そのマーケットにチャンスを感じた小室はTRFを始動。これが“小室ファミリー”の快進撃の原点となった。当時の心境を、小室はこう語る。「週刊コミックの連載を、4本から10本ぐらい持っている感じ…」。さらに、「締め切りに間に合わなかったらどうしよう…」というプレッシャーの中で、小室が曲を生み出し続けることができた“ある方法”とは? 1996年ごろ、“小室ブーム”は絶頂期を迎える。しかし、4日に1曲を仕上げるという日々の中で、「音楽を書くことが楽しくてたまらなかった」というかつての気持ちに変化が現れた。このころから、「周りの反応が怖くて、笑うことができなくなった」という小室。周囲の声を気にし過ぎていたという、当時の苦悩を赤裸々に語る。 現在、小室の音楽への向き合い方は変わりつつある。そのきっかけとなったひとつは、NHKの“のど自慢”。自分の歌をみんなに披露したいという一般の人々からは、シンプルな音楽への愛情を感じるという。もうひとつは、海外の一流ピアニスト、ファジル・サイの演奏法。心打たれたというその演奏から、小室が感じ取ったメッセージとは? そして、今後、小室が目指す音楽とは…? また、小朝からの“天才”と聞いて思い浮かべる人は? という質問に対して、小室が名前を挙げたのは2人のアーティスト。その人物とは? そして小室が感じる、2人との意外な共通点とは? インタビューのラストには、「墓標に彫りたい言葉」を語ってくれた小室。さまざまな心の内をさらけ出したインタビューで、誰も知らない新たな小室哲哉が垣間見えた。
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ゲスト×インタビュアー
小室哲哉(音楽プロデューサー)×春風亭小朝(落語家)
インタビューの場所は、都内のスタジオ。小室がいつも新たな音楽作りに取り組んでいるというこの場所で、落語家・春風亭小朝がインタビューに挑む。
小朝からの最初の質問は、今、一世を風靡(ふうび)している「ピコ太郎」について。1990年代、“ダンス”と“レイブ”という新たなジャンルを確立し、音楽界を席巻した小室。その解答から、ヒット曲を作り出す戦略やこだわりが見えてくる…。
1984年に宇都宮隆、木根尚登とともに、3人組ユニット“TMネットワーク”としてデビュー。その年はちょうど、YMO(イエローマジックオーケストラ)が解散した翌年。3人組のユニットは、いつの時代にも需要がある…YMOが抜けた後の隙間を狙った小室の読みは見事的中。デビュー当時から、小室は“売れるための戦略”にこだわり続けていたという。
1992年、綿密なリサーチの末に目を付けたのが“ダンス”と“カラオケ”。そのマーケットにチャンスを感じた小室はTRFを始動。これが“小室ファミリー”の快進撃の原点となった。当時の心境を、小室はこう語る。「週刊コミックの連載を、4本から10本ぐらい持っている感じ…」。さらに、「締め切りに間に合わなかったらどうしよう…」というプレッシャーの中で、小室が曲を生み出し続けることができた“ある方法”とは?
1996年ごろ、“小室ブーム”は絶頂期を迎える。しかし、4日に1曲を仕上げるという日々の中で、「音楽を書くことが楽しくてたまらなかった」というかつての気持ちに変化が現れた。このころから、「周りの反応が怖くて、笑うことができなくなった」という小室。周囲の声を気にし過ぎていたという、当時の苦悩を赤裸々に語る。
現在、小室の音楽への向き合い方は変わりつつある。そのきっかけとなったひとつは、NHKの“のど自慢”。自分の歌をみんなに披露したいという一般の人々からは、シンプルな音楽への愛情を感じるという。もうひとつは、海外の一流ピアニスト、ファジル・サイの演奏法。心打たれたというその演奏から、小室が感じ取ったメッセージとは? そして、今後、小室が目指す音楽とは…?
また、小朝からの“天才”と聞いて思い浮かべる人は? という質問に対して、小室が名前を挙げたのは2人のアーティスト。その人物とは? そして小室が感じる、2人との意外な共通点とは?
インタビューのラストには、「墓標に彫りたい言葉」を語ってくれた小室。さまざまな心の内をさらけ出したインタビューで、誰も知らない新たな小室哲哉が垣間見えた。