ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

  • トップページ
  • バックナンバー
  • インタビュアー
  • contents4

バックナンバー

10月17日(土) ゲスト:フジコ・ヘミング(ピアニスト)

第二次世界大戦がはじまる前にドイツ・ベルリンに生まれたフジコ・ヘミング。"ショパンとリストを弾くために生まれてきた"と絶賛されながら、ピアニストとしての第一歩となるリサイタルの直前に聴力を失ってしまう。それから30年を経て、CD『奇跡のカンパネラ』で遅咲きのデビュー。クラシック界では異例の200万枚を越える大ヒットとなる。
多くの人を魅了するフジコ・ヘミングの"泣ける"音色。魂のピアニストを生み出した数奇な半生に迫る。

パリで生活するフジコ・ヘミングが、コンサートのため半年ぶりに来日。日本に降り立った翌日、グランドピアノのある下町の喫茶店でインタビューが行われた。一度はすべての聴力を失ったフジコ・ヘミング、現在は左耳のみ40%まで取り戻してはいるが、万全ではない。その状態で、どのように"魂の音色"を生み出すことができるのか?

フジコ・ヘミングに最も影響を与えた人物、それは、幼少の頃からフジコにスパルタでピアノを教えた母、投網子だ。東京芸術大学を出てベルリンへの留学という母の辿った道のりを、フジコ・ヘミングも周囲の大きな期待と共に歩んだ。しかし、ピアニストとしての第一歩となる重要なリサイタルの直前に聴力を失う。そしてピアニストへの道を諦めることに。
母が90歳で亡くなった後、日本に帰国したことがフジコ・ヘミングがデビューするきっかけとなった。母に見せることのできない現在の成功。フジコ・ヘミングの母への思いとは?

ピアニストとしてデビューしたのは67才を過ぎてから。それまでは、ピアノ教師をしながらヨーロッパを転々としていた。一週間、砂糖水だけで暮らすようなどん底の生活を体験している。その貧しい暮らしの中でも、一人でも聞いてくれる人がいれば、とピアノを弾き続けたフジコ・ヘミング。その思い出を語る。

また、手芸やイラストを描くことが得意というフジコ・ヘミング。貧しかった時代には、自分で洋服を加工したり装飾したりし、自分だけのスタイルを確立していた。インタビュー収録時に着ていた衣装もフジコ・ヘミングのオリジナル。そのこだわりとは?

さらに番組のために、今、弾きたい曲を披露。それは、シューベルトの"即興曲"とモーツアルトの"トルコ行進曲"。果たして…。

10月18日(日) ゲスト:瀬川瑛子(歌手)

大ヒット曲「命くれない」でお馴染みの瀬川瑛子。
インタビューの場所は渋谷区内にあるハウススタジオ。実は瀬川は渋谷生まれの都会っ子。瀬川は1947年、往年の人気歌手の瀬川 伸の二女として生まれた。股旅物やマドロス物で人気を博し、2度の紅白出場を果たした父・伸は娘・瑛子が5歳の時から将来歌手になるためのレッスンを続けた。父が教えたのは「歌の技術」ではなく「歌心」。5歳の娘の歌に父は「女の情感」を求め、娘は戸惑ったという。

父の期待を背に19歳の時、歌手デビュー。長い下積み生活が当たり前の演歌界で、デビュー3年目にしてヒット曲「長崎の夜はむらさき」に恵まれた。しかしそこからの現実は厳しかった。

ヒットが出ず「潜水艦歌手」と呼ばれた瀬川に再びチャンスが巡ってきたのは35歳の時。
声をかけてくれたのは作曲家の船村徹だった。各レコード会社による競作曲「矢切りの渡し」(船村徹作曲)が14年ぶりのヒット。船村から教わった「年齢に合った唄い方」。それは「命くれない」へとつながっていったという。

昭和最後のミリオンセラーとなった名曲「命くれない」は夫婦の強い情愛を描いた曲。しかしこの歌と巡り合った時、瀬川自身は13年間の結婚生活に終止符を打とうとしていた。自分の置かれている状況と、歌とのあまりの違いに戸惑い、聞いてくれる人たちを騙しているような罪悪感を感じたという。「自分にこの曲を唄う資格は無いのではないか」と葛藤し、歌う度に胸が痛んだ。どのようにして瀬川はその葛藤を乗り越えたのか?

そしてこの「命くれない」で、瀬川は親子2代での紅白歌合戦出場を果たした。大晦日の夜、家にいた父は、娘の出番になるとテレビの前から姿を消したという。その真意とは。

2004年2月、瀬川の母・たか子さんが他界、そのわずか2週間後に父の伸が後を追うように旅立った。それはまさに「命くれない」のようだった。瀬川が語る、母、そして父への思いとは。