ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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6月11日(土) ゲスト:藤竜也 (俳優)

俳優・藤竜也。
インタビューの舞台は、生粋の横浜っ子であるという藤が足しげく通うというホテルニューグランドにあるバー・シーガーディアンⅡ。藤が命名したというオリジナルカクテル「ヨコハマElegance」を飲みながら、その本音を語っていく。インタビュアーは、映画監督のヤン・ヨンヒ。
1941年3人兄弟の長男として北京で生まれ、太平洋戦争最中に帰国、横浜で育った。しかし6歳の時、父が交通事故で他界。母が大黒柱となり、女手一つで育てられる。藤は、父との別れの直前にとても不思議な夢を見たという。その夢とは?
子どものころから大の映画好きだった藤が俳優の道に入ったのは、日本大学芸術学部演劇科に在学中の時。ガールフレンドがデートの約束時間に遅刻し、待っていた時に日活のスカウトマンに偶然声を掛けられたのだという。
本名の伊藤龍也から「伊」を取り、藤竜也に改名してニューフェイスとしてデビューするも、待っていたのは端役ばかりの鳴かず飛ばずの日々…。そこで藤は、当時斬新な演出で人気監督となった鈴木清順のもとを訪ね、出演をアピールするが、返ってきたのは鈴木からのキツイ一言だった。しかし、それが後の俳優・藤竜也を生んでいくことになったと語る。
1968年、当時日活の看板女優だった6歳年上の芦川いづみと、知り合ってわずか1カ月半で結婚。しかし、藤と芦川の結婚は、いわば“格差婚”。本来なら周囲の反対もあり、前途多難だったであろう、ドル箱スター女優と駆け出し俳優の道ならぬ恋。しかし、それが成就したのは、大スター石原裕次郎の助けがあったからだという。当時を振り返り、エピソードを語る。
その後、所属していた日活が経営不振に陥り、フリーとなった藤は、ドラマ「時間ですよ」などのテレビドラマにも進出、お茶の間の人気を得る。しかし、1976年、藤は俳優人生の岐路に立たされる作品と巡り合う。大島渚監督「愛のコリーダ」だ。愛する男性の性器を切断した、いわゆる「阿部定事件」を題材にしたこの作品は、セクシャルでセンセーショナルな描写が世間に衝撃を与え、わいせつか? それとも芸術か? 表現の自由を巡って、裁判にまで発展した。多くの俳優たちが出演を尻込みする中、「これをやらないやつは、ばかだ」と二つ返事で引き受けたという。文字通り“体当たりの演技”で世界的な評価を獲得した反面、この作品への出演により、テレビや映画のオファーは激減、数年間仕事がない時代が続いた。しかし、その状況を覚悟していたため、大して驚かなかったという。今も昔も出演は全て自分で決めるという藤だが、多くのオファーがある中、何を基準に仕事を引き受けているのか?
今年、75歳を迎える藤。人生の終盤に差し掛かった今、どのような思いで仕事に、そして年を重ねることに向き合っているのか? 人生、仕事、老いと死、そして妻・芦川いづみについて…。これまでほとんど明かされてこなかった俳優・藤竜也の赤裸々な素顔を映し出す、貴重な1時間!

6月12日(日) ゲスト:ペギー葉山 (歌手)

歌手・ペギー葉山
1952年「ドミノ/火の接吻」で歌手デビューして以来、これまでのレコーディング曲は2000曲を超え、レコード発売枚数は約200曲に及ぶ。「南国土佐を後にして」「学生時代」「ドレミの歌」など愛され続ける名曲の数々は、どのように生まれたのか? 半世紀立った今も衰えを知らず、輝きを増してゆく歌声の秘密とは?
インタビューの舞台は、ペギーの母校、青山学院大学の中にある礼拝堂。「学生時代」の歌碑が立てられ、夫・根上淳と式を挙げた思い出の場所で、彼女は何を語るのか?
太平洋戦争の真っただ中、小学校5年生の時に生まれ育った東京から福島県に集団疎開をしたペギー。親と離れての生活で泣き出す子どもたちをあやしていたという。食べ物も無く、飼っていたウサギを食べることが子ども心に悲しかったと当時の思い出を語る。そして、聞いた玉音放送。同じく戦争を経験した野際とともに、戦争について深く語り合う。
終戦後、アメリカの音楽や映画に熱中し、英語の勉強を始める。高校生の時には、米軍のクラブで歌い、歌唱力に磨きをかけていった。そのころ名付けたという「ペギー葉山」という芸名の由来とは?
1959年、100万枚を超える大ヒットとなった「南国土佐を後にして」を発売。そこには意外な制作秘話が。実は、ペギーはこの曲を歌いたくなかったのだという。一体なぜなのか? 彼女の当時の思いとは?
1960年、アメリカ・ブロードウェーでミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を見たペギーは劇中歌の「ドレミの歌」に感激し、日本語の作詞を行った。歌詞を食べ物で統一したかったが、「ファ」の表現に行き詰まる。一体なぜ「ファはファイトのファ」になったのか? 「ドレミの歌」にまつわる驚きの真実が明かされていく。
さらに、2005年に他界した夫、俳優の根上淳についても思いを語る。根上が糖尿病からくる脳梗塞で倒れた後も、ペギーは介護をしながら歌を歌い続けた。介護生活の中、歌を休もうと考えたこともあったが、根上の一言がペギーを支え続けた。心に残るその言葉とは?
数々の名曲とともにつづるペギー葉山の歌人生。夫と作詞した「アイ・フィル・ユア・ラブ」は必見!