ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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9月3日(土)ゲスト:村田諒太 (プロボクサー)

プロボクサー、村田諒太。
1986年、奈良県奈良市で、両親共に公務員の3人兄弟の末っ子として生まれる。小学生のころに、両親が離婚。物事に真面目に取り組むことができず、まさに“不良”という学校生活を送っていたという。しかし、中学時代にボクシングと出会い、“強い者が勝つ”というストレートな魅力に次第にのめりこんでいく。
高校時代、ボクシング部で生涯の恩師という武元前川先生に出会う。厳しい指導、練習を乗り越えた村田は、高校タイトル5冠という栄光を手にする。次第にオリンピック出場を目標に見据えていくが、現実はそんなに甘くなかった。大学時代、世界選手権でトップクラスの外国人ボクサーと対戦し、完膚なきまでの大敗を喫した村田は、自らのボクシングに限界を感じ、一度はボクシングから遠ざかった。しかし、母校のボクシング部の不祥事、恩師の死をきっかけに奮起、努力を重ねてロンドンオリンピックに出場し、48年ぶりの金メダルを獲得した。日本人にはまず不可能、といわていたミドル級での偉業だった。
念願の金メダルを手に入れた村田だが、オリンピックでのパフォーマンスは最低だった、と振り返る。“オリンピックの魔物”と呼ばれるものの仕業なのか、実力の半分しか出すことができず、それがとっても悔しかった、と語る。金メダリストとなり、一躍時の人となるも、“世間のイメージ”と“本来の自分”とのバランスがとれず、戸惑いも感じたという。当時の心境を、今回赤裸々に語る。
オリンピック後には、プロボクサーに転向し、現在プロ11連勝中。村田が“世間の期待”と“自分の実力”とのバランスが取れてきた、と実感できたのは最近のこと。近年中には、世界に挑戦する可能性も出てきた。プロボクサーとして歩み始めた村田の、世界チャンピオンへの思いとは? 常にナンバー1を目指し続けてきた男の、知られざる苦悩とトップへの道のりに、編集者・森下康樹が鋭く切り込む!

9月4日(日)ゲスト:タイムファイブ (ジャズコーラスグループ)

結成からまもなく50周年を迎える、ジャズコーラスグループ、タイムファイブ。結成から一度もメンバーが変わることなく、職人のように美しいハーモニーを紡ぎ続けてきた。
普段はほとんどテレビの出ることが無い、まさに“伝説のグループ”タイムファイブが50年近く取り組んできた、ジャズコーラス。運命的な出会いは、1960年代後半に訪れた。同志社大学軽音楽部に籍を置いていた5人は、アメリカで人気を博していたフォー・フレッシュメンのサウンドと出会い、タイムファイブを結成。そこから運命に導かれるように、小島正雄、前田武彦、大橋巨泉、いずみたく…など、さまざまな人々との出会いを通じてプロデビューを果たす。
1970・80年代は、音楽業界が華やかだった時代。5人の卓越されたコーラスの技術は、当時生バンドが演奏していたテレビの音楽番組やレコーディングなどで瞬く間に引く手あまたとなり、多忙を極めた。特筆すべきは、1000以上のCM曲をタイムファイブの5人が担当してきたということ。自動車から食料品、飲料…さまざまな商品に、魅力的で心温まるハーモニーが添えられた。
大きな転機は1986年。本場アメリカのモントレー・ジャズフェスティバルに日本人ボーカルとして初めてステージに立った。アカペラで歌った「星に願いを」は大反響。帰国後には、アルバムがジャズとしては異例の大ヒットを遂げ、紅白歌合戦出場も果たした。
2014年には、天皇皇后両陛下の傘寿を祝う音楽会にも参加。この時、天皇陛下の意外な素顔を知ることができたと語る。その真意とは?
まもなくメンバー全員が70歳を超える今、タイムファイブが力を注いでいるのは、ジャズコーラスの普及だ。5人がそれぞれ先生となり、150人以上の生徒に本格的な技術と楽しさを伝えている。
創作意欲が衰えることのない伝説のアーティスト、タイムファイブ。音楽通のインタビュアー・石原正康がその知られざる歴史をたどる!