ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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9月17日(土)ゲスト:藤岡弘、 (俳優・武道家)

俳優・武道家の藤岡弘、。
愛媛県出身。元軍人で警察官の父と、茶道と華道の師範である母のもとに生まれた藤岡は、幼いころは意外にも病弱で、いじめにあったこともあるという。そんな藤岡を心配した父親が、武道の手ほどきをしてくれたことから、「藤岡弘、」の原型が培われていく。
いつしか映画に憧れ、高校卒業後に、何のあてもなく単身上京。そこに待っていたのは、野宿にアルバイトという過酷な生活だった。しかし藤岡の人柄か、縁あって松竹のニューフェイスとしてデビューを果たす。その後いくつもの作品や映画に出演するも、自分の中ではふに落ちない日々が続く。そんな中、出会った作品が「仮面ライダー」だった。自分の生き方と背負ってきたものが主人公・本郷猛と合致したのだという。何でも自分でやらないと気がすまない性格から、スーツアクションもスタント無しで挑み、全力でぶつかった。それが災いし、バイクの撮影シーンで大けがを負ったことも…。
その後、「野獣死すべし」や「日本沈没」など名作の主演をこなし、1984年にはハリウッド映画「SFソードキル」で主演に抜てき。これがきっかけで「全米映画俳優組合」のメンバーになり。日本人として初の国際俳優にもなった。しかし最初の脚本は、武士道を知る藤岡にとって、納得のいく内容ではなかった。本当の日本人、そして武士道を知ってもらうため、藤岡はある決意をする。それが芸名「藤岡弘、」の「、」を付けたことにつながっているのだという。その真意とは?
また、精力的に取り組んでいるボランティア活動についても、思いを語る。20年以上にわたり、自ら世界中の紛争地域や難民キャンプを訪れ、救援活動をしてきた。これまで、幾度もこの世とは思えない想像を絶する光景を目にしてきたと語る。危険を顧みず行動する藤岡を突き動かすものとは、一体何なのか?
インタビューの舞台は、東京・霞が関にある会員制のレストラン。数多くの有名人や政界人も通う、藤岡行きつけの店だ。そんなプライベートな空間で、編集者の舘野晴彦は、一体どんな藤岡弘、の素顔を引き出すことができるのだろうか?

9月18日(日)ゲスト:新沼謙治 (歌手)

歌手・新沼謙治。
1956年、岩手県大船渡市生まれ。
勉強は苦手で、中学を卒業後は、父の勧めもあって就職。出稼ぎに出ていた叔父を頼り、栃木の宇都宮で左官職人に弟子入りした。その時に開かれたのが、花見を兼ねたカラオケ大会。そこで優勝した新沼は、当時人気だった番組「スター誕生」に出ることを勧められる。
当時19歳だった新沼は、予選会が行われていた有楽町のよみうりホールへと足を運んだ。歌には自信があった新沼だが、審査は厳しく、いつも2次予選で落選。5度目の挑戦でついに予選大会を通過し、念願の決戦大会へと進出した。
1976年には「おもいで岬」でレコードデビュー。同年にリリースした「嫁に来ないか」は最大のヒット曲となり、この年のレコード大賞の新人賞を受賞、紅白歌合戦にも出場した。2年間、1日も休みなく、1日15本の仕事をこなすという多忙なスケジュールだった、と当時を振り返る。
1986年、バドミントンの世界大会で30回以上の優勝経験を持つ女王・湯木博江さんと結婚。もともとは、バドミントンの弟子と師匠という関係だった。式は、新沼のふるさと大船渡市で盛大に行われた。一男一女の子宝にも恵まれ、まさに順風満帆の結婚生活。妻は家庭だけではなく、仕事の面でも新沼を支えてくれた。コンサートの客は半分以上、妻のバドミントンの関係者だったという。
そして迎えた2011年。この年は、新沼にとって悪夢のような1年となった。3月11日、東日本大震災によって故郷の大船渡が津波にのまれた。その半年後の9月には、がんを患っていた妻が62歳の若さでその人生の幕を閉じた。被災地支援のコンサートのため、山形に行っていた新沼は、妻の最期を看取ることができなかった。その翌日も、新沼は被災地でのコンサートの舞台に立っていた。新沼が出てきた時、会場中が涙に包まれ、新沼も涙で歌が歌えなかったという。
震災、そして、妻の死から1年後…。子どものころによく遊んだ故郷の盛川を散歩していた時、新沼にある曲の詩とメロディーが浮かんできた。それを曲にした「ふるさとは今もかわらず」は、周囲の人から「博江さんが君に書かせてくれた」といわれたという。全国の学校や合唱団からは、譜面を依頼する声が殺到し、多くの被災者をこの歌で励ましてきた。
 さまざまな試練を乗り越え、今、新沼謙治が思うこととは? 新沼のこれからの人生の展望に、映画監督のヤン・ヨンヒが切り込む!