ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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9月24日(土)ゲスト:多湖弘明 (鳶職人)

鳶職人・多湖弘明。「“鳶”の世界は、鳶職人から直接聞く以外に知る術はない」…そう語る多湖は、“鳶”という仕事の実態を日本中の人々に認識してもらいたいと、鳶職人の視点で情報発信を続けている。なぜ多湖は、そこまでして“鳶”の世界を発信し続けるのか?
1976年、大阪・西成区生まれ。大阪にある世界的に有名なある建築物の工事現場を見て、多湖少年は建築に興味を持つ。高校卒業後、バイクで交通事故に遭い、医者から半身不随の通告を受けるも、この災いがきっかけとなり、多湖は鳶職人の世界へと足を踏み入れることに。一体なぜ、この事故が鳶職に進む転機となったのか? 
鳶職人になって3年、多湖の人生を変える悲しい出来事が起きる。18歳からともに鳶職人として苦労してきた仲間が、多湖との作業中、鉄骨の下敷きになりこの世を去ったのだ。これを機に、多湖は海外へ放浪の旅に出る。“仲間の死”“放浪の旅”が、今の行動に結び付いている、と多湖は語る。鳶職として情報を発信し続けるようになった、その経緯とは?
戦後、急速に復興を遂げた日本。東京タワー、高速道路、高層ビルにマンション…、これら建築物は、鳶職人無くしては作れなかった。鳶職人は、その仕事の内容のすさまじさから“神に最も近い存在”と称されることも。その主な仕事は、建築の基礎となる、重さ10トン以上の鉄骨を組むこと。それ以外にも、タワークレーンや工事用エレベーターの組み立てと解体なども手掛ける。“鳶”の仕事が遅れれば、工事が進まない…そのため、地上数100mの現場を1秒たりとも無駄にせず、駆け巡っている。そんな“鳶”の仕事に欠かせない、ある意外な道具とは?
地上634m、世界一高いテレビ塔である東京スカイツリーの建設に携わった際のエピソードも。東日本大震災は、地上450mで経験した。想像を絶する過酷な現場の様子とは?
インタビューの舞台は、東京・浅草ビューホテルにあるスカイツリーが望めるバー。インタビュアーは、作家・吉永みち子が務める。これまでに多湖が撮り続けてきた臨場感あふれる写真とともに、その「裸の履歴書」を紡ぐ。

9月25日(日)ゲスト:田臥勇太 (プロバスケットボール選手)

プロバスケットボール選手・田臥勇太。
1980年、神奈川県横浜市生まれ。母は高校時代、バスケットボールで関東大会に出場、3歳上の姉もミニバスケットボールをしていた。その影響もあり、田臥は8歳の時、ミニバスケットボールのチームに入部。すぐに非凡な才能を開花させ、全国大会の常連となる。当時の教材は、NBA中継のビデオ。特に夢中になったのは、スタープレイヤー、マジック・ジョンソンの“ノールックパス”。敵をあざむくトリッキーなプレーに憧れ、必死にまねをしていたという。
中学を卒業すると、親元を離れ、バスケットボールの名門・能代工業高校に入学。入学直後からスタメン入りし、インターハイ・国体・ウインターカップの3大タイトルを、3年連続で制覇する。これは、史上初の快挙だった。加藤三彦監督の手腕により、田臥の日本人離れしたプレーは大きく飛躍し、高校3年の時には、日本人として初めて世界ジュニア選抜に選出された。単身アメリカに渡り、全米高校選抜と対戦、世界レベルのプレーに刺激を受けた田臥は、NBAを目指すことを決意する。
ハワイの大学に3年間留学したあと、日本のリーグで1年プレー。そして22歳の時、NBAのトライアウトに参加する。世界中から集まった非凡な才能と1週間合同で練習し、レベルに達していない者は次々と脱落…。身長2mを超える選手が珍しくない世界で、身長173cmの田臥はサバイバルをくぐり抜け、翌年フェニックス・サンズと契約、ついにNBAプレーヤーの座を射止めた。世界最高峰のNBAで、田臥は何を見たのか? トッププレーヤーから学んだこととは? 日本人がNBAでプレーするために何が必要なのか? 具体的なエピソードを交え、田臥の考えを聞く。
27歳の時、出場機会を求めて帰国し、高校時代の恩師・加藤三彦が監督に就任したばかりのトップリーグ・リンク栃木ブレックスに入団。その後は、アシスト王やベスト5など数々のタイトルを獲得してきた。ベテランの域に達しても色あせないプレーで、チームをけん引している。
今年秋には、いよいよプロバスケットボール新リーグのBリーグが開幕する。バスケットボール新時代を前に、田臥は何を思い、どこへ向かおうとしているのか? 練習映像やチームメイトのインタビューから、バスケットボール界の至宝・田臥勇太の胸中に迫る!