ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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11月12日(土)ゲスト:ビリー・バンバン (歌手)

昭和のフォークソングを代表する兄弟のデュエット、ビリー・バンバン。美しいハーモニーで「白いブランコ」や「さよならをするために」などの曲をヒットさせ、一世を風靡(ふうび)した。しかし、解散と復活、大病と多額の借金など、その人生は苦境の連続だった。それでも兄弟で歌い続ける、ビリー・バンバンの情熱と兄弟ならではの絆とは?
兄の孝と弟の進は、東京・国立市で、男3人兄弟の次男と三男として生まれた。父は、都庁に勤める公務員だったが、母親が音楽好きでモダンな女性だった影響から、子どものころからピアノを習うなど音楽と親しんできた。特に弟の進は、高校時代からバンドを組み、初代ビリー・バンバンを結成。その後、2人は「黄色いさくらんぼ」「愛して愛して愛しちゃったのよ」などのヒット曲で知られる、作曲家・浜口庫ノ助氏に師事し、レッスンを受けるように。
当初4人いたビリー・バンバンは、2人が抜け、進と後にお笑いタレントとなったせんだみつお(当時はせんだ光雄)が残り、そこに孝が参加。一度は、3人のビリー・バンバンとなるが、プロデビューする際、浜口氏に兄弟2人のデュエットにした方が良いとアドバイスされた。
1969年にフォーク界の新星としてデビューを果たし、「白いブランコ」は大ヒット。この曲は、進が高校の時に作った曲。当時の「白いブランコ」は、フォークロック調で、今の曲とは違うアレンジだった。その違いを、今回ギターで弾き語りながら説明してもらう。
3年後には、テレビドラマの主題歌でもあり、石坂浩二が作詞をした「さよならをするために」が、大ヒット。NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。しかし、この曲を最後にヒットが出ない日々が続く。音楽への考え方や、経済的な事情、アメリカ進出への思い…など、さまざまなくい違いが重なり、デビュー7年目にしてビリー・バンバンは解散。母も心を痛めたという。
こうして、兄の孝は、テレビ番組の司会業や役者などの道へ。一方、弟の進は、作曲家、ソロシンガーとして歩み始める。そんな中、進が手掛けたウイスキーのCMソング「琥珀色の日々」が、カンヌ国際CF賞を受賞した。しかし、当時の進は、収入が減り、夫婦仲も良いとはいえず、さらに重いぜんそくを患いっていた。そんな進を心配し、兄の孝に弟を見てきてほしい、と頼んだのは母だった。苦しむ進を見た孝は、ビリー・バンバン復活を心に決め、なかなか首を縦に振らなかった進を説得し、1日限りの復活を遂げる。そこで2人に、予期せぬ出来事が起きた。解散から8年間、一度も歌ったことがない曲も、一緒に歌うとピタっと呼吸が合ったのだ。やはり2人には、ビリー・バンバンが必要、とお互いの仕事をしながらビリー・バンバンとして活動を再開した。
ところがその後、孝は、事務所の社長に頼まれ、保証人となって2億円の借金を背負う。そんな苦境を救ったのが、またもCMソングだった。2人は焼酎メーカーのCMソングを歌い、再びヒット曲を世に送り出す。「また君に恋してる」は、坂本冬美もカバーしたことから大ヒット、ビリー・バンバンとして3枚目となるシングルを出した。こうして、同じメーカーのCM曲を28年間にわたり歌い続けることに。
順調に歯車が回り始めたと思った矢先、一昨年、進が大腸がんになり手術。孝は、脳出血で倒れてしまう。しかし、そこからも奇跡的に復活を果たした2人は、今後新たなことに挑戦しようとしているという。前進し続ける彼らの情熱の源とは、一体何なのか? 
インタビューの場所は、2人が30年以上通う東京・南青山の居酒屋「るー」。テレビ朝日スポーツコメンテーター宮嶋泰子が、2人の壮絶な半生をひもといていく!

11月13日(日)ゲスト:田川寿美 (歌手)

歌手、田川寿美。
1975年生まれ、和歌山市出身。建設業を営む父親と、大阪松竹歌劇団出身の母親のもと、4人兄妹の3番目として生まれた。母親の影響で兄妹4人全員が民謡を習っていたが、長続きしたのは寿美ひとり。自分の歌声で大好きな家族が喜んでくれるのが、うれしかったという。
10歳から歌謡教室に通い、それ以降、アマチュアの歌謡コンテストで次々と優勝。作詞家・悠木圭子と作曲家・鈴木淳夫妻にその才能を見出される。
1991年、中学を卒業した田川は単身上京。高校に通いながらデビューに向け、レッスンを受ける。翌年、「女…ひとり旅」でデビュー。16歳の愛くるしいルックスで演歌を歌う姿は、演歌×アイドル=“演ドル”として注目され、デビュー曲は10万枚を越えるセールスを記録した。美しい高音部が印象的で、大人の情念を歌い上げ、数々の新人賞を受賞する。
19歳で紅白歌合戦初出場、21歳で座長公演を行うなど、快進撃を続ける一方、自分に課せられた重責と期待にプレッシャーを感じ、眠れぬ日々が続いた。自分らしい歌とは一体何なのか? を模索していた田川は、作家・五木寛之氏との出会いをきっかけにひとつの答えを導き出す。五木氏から詞の提供を受けた「女人高野」。ロックサウンドを大胆に取り入れ、着物をアレンジしたドレスを身にまとい、エレキギターを奏でながら歌う斬新さが話題に。そこには、普段演歌を聞かない人にもこの曲を知ってもらいたいという、田川の思いが込められていた。
プライベートでは2011年、35歳の時に14歳年上の会社役員と結婚。翌年には長男をもうける。子どもを授かったおかげで、仕事とプライベートの切り替えができるようになった。独身のころは、家でも仕事のことを考えては、くよくよしていたが、子育てをする中でそんな時間も惜しくなった、と語る。しかし、お互いの仕事の都合で、夫とはすれ違いが続き、2015年に離婚。自ら別れを決断したという背景には、田川のどんな思いがあったのだろうか?
今年でデビュー25周年。12月には記念コンサートを控えている。今回、そのコンサートに向け練習しているというギターの弾き語りを、特別に披露してくれた。人生の経験を重ねながら、歌声にさらなる磨きをかける田川寿美。“哀愁演歌の女王”の半生に、編集者の舘野晴彦が迫る!