ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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11月26日(土)ゲスト:木村草太 (憲法学者)

憲法学者・木村草太。
「報道ステーション」など、テレビ番組のコメンテーターとしても目にする機会が増えてきた新進気鋭の憲法学者だ。今回のインタビュアー小島慶子とは、これまでテレビの討論や雑誌の対談で顔を合わせてきた間柄。小島は、木村がどのような人物なのか、気になっていたという。これまであまり語られることのなかった、憲法学者という職業、そして木村草太の素顔をひもといていく。
 インタビューが行われたのは、東京八王子市にある首都大学東京。ここは、木村が教授として日々過ごしている場所。学園祭の準備ににぎわうキャンパスで2人は待ち合わせた。
幼少期から「少し変わっている」「面倒くさい」性格といわれてきた木村が、本格的に憲法に興味を持ったのは中学生の時。近所の本屋でベストセラーとなっていた「日本国憲法」という本を手にしたことがきっかけだった。その後、司法試験を受けるため勉強し、東京大学へ進学。そして、大学2年生の時、学者を目指すことを決意。木村はなぜ「憲法」に夢中になったのか?
そして小島が知りたかったのは、テレビでは語られることのなかった木村のプライベート。木村には妻と2人の子どもがおり、一家の大黒柱でもある。家庭では一体どんな夫で、どんな父親なのか? 想像のつかない木村の肖像が、自身の口から語られる。
もちろん専門分野の「憲法」についても。木村が最も心掛けていることは、憲法をいかにわかりやすく伝えるか。そして、憲法が困っている人たちのために役立つものだということを、多くの人に知ってほしいと語る。学校では生徒にもわかりすいと評判の木村の授業。さまざまなことを身近な物に例え、講義をしてきた。今回のインタビューを見終わった後は、みなさんも「憲法」をより身近に感じられるようになるかもしれない。

11月27日(日)ゲスト:白石康次郎 (海洋冒険家)

海洋冒険家・白石康次郎、49歳。
26歳で、単独無寄港世界一周を達成し、当時の世界最年少記録を樹立。その後、世界一周ヨットレースに2度出場し、全て完走。最高順位は2位。世界を脅かせた、日本ヨット界の第一人者だ。
鎌倉で育ち、名門・横浜国立大学教育学部附属鎌倉小中学校に通う。一流大学へ進み、一流企業へ…、そんな未来もあり得た。だが白石は、船に乗りたいと、水産高校へ進学。白石少年を突き動かしたのは“好奇心”。目の前に広がる鎌倉の海、水平線の先には、何があるのか? 船で世界一周は本当にできるのか? 自分の目で確かめたかったという。
そんな夢を抱いた高校生の白石に、あるニュースが飛び込んできた。1983年、史上初の単独世界一周ヨットレースが開かれ、日本人が優勝したというのだ。世界の名だたるヨットマンを抑え、偉業を成し遂げたのは、多田雄幸、52歳。職業は個人タクシーのドライバーだった。この人にヨットを習いたい。白石は多田のもとに押しかけ、弟子入りを志願する。インターネットのない時代、白石はいかにして多田にコンタクトを取ったのか?
1990年、多田は再び世界一周レースに参加。弟子の白石はそのサポートに回った。上位入賞を期待された多田だったが、荒れる南氷洋で何度も横転。思うようにレースが進められず、心身疲労でリタイヤ。そして、寄港地のシドニーで、多田は自ら命を絶ってしまう。白石は多田の船を譲り受け、オーストラリアから日本までヨットを操縦。スプリット・オブ・ユーコー“雄幸の魂”と名付け、単独無寄港世界一周に挑んだ。しかしそれは、失敗の始まりだった。初めてのチャレンジは、スタートから9日目にかじが壊れ、無念のリタイヤ。1カ月後リベンジするも、マストが破損し、再びリタイヤ。3度目の挑戦は、多田に弟子入りしてから7年が過ぎたころだった。静岡県の松前港を出発し、小笠原諸島を抜けて赤道を通過。南米大陸と南極の間を通り抜け、アフリカ最南端喜望峰を通過。たった一人、どこの港にも立ち寄らず、176日間かけて帰国。単独無寄港世界一周を成し遂げた。26歳での達成は、当時の世界最年少記録となり、白石康次郎の名は世界に知られるように。6年後の2002年には、夢だった世界一周ヨットレースに参加。見事世界一周に成功する。4年後には準優勝の快挙を成し遂げ、通算3度目の世界一周を達成した。
海に出れば修理は自らの手で行わねばならない。その時に役立つのは水産学校時代に身につけた資格の数々。白石はヨット修理、通信技術など、様々な資格を持つ。しかし、3度の世界一周を達成した白石でも、恐れる海域がある。それが南米大陸と南極との間、マゼラン海峡。「帆船乗りの墓場」と呼ばれ、今まで数多くの船乗りたちが命を落とした。常に死と隣り合わせの単独ヨットレース。白石には、参加するたび感じることがある。それは「生きている」という実感。死を意識することで初めてその実感が強烈に湧き上がるという。
白石が参加する世界一過酷な単独無寄港世界一周ヨットレース「ヴァンデ・グローブ」。操作するヨットは全長18m、大会の運営費はトップチームで約10億といわれる。この大会に参加するため、白石は10年かけて資金を募り、ようやくスタートラインに立った。白石は言う「この大会はヨットの操船技術があるだけでは参加できない。それだけのお金を集めることができるのか、それも挑戦。自分がそれに見合う人間になれたのか、人生が試される」と。
白石には師匠の多田以外にもう一人、憧れの人がいる。それは、冒険家の植村直己。日本人として初めてエベレスト登頂に成功し、犬ゾリでの単独行で北極点到達、国民栄誉賞を受賞した。しかし植村は1984年、マッキンリーにて消息を絶つ。実は白石の師匠である多田と植村は親交があり、植村の死後、多田は形見を受け取っていた。それは植村が北極で仕留めた、ホッキョクグマの爪。多田の死後、白石はこの爪を引き継ぎ、お守りとして肌身離さず身に着けている。これには“冒険家魂”が宿ると白石はいう。
その形見とともに、白石の心の支えとなっているのが、家族。白石は一人娘を持つ父親でもある。普段から、これが最後の食事になるかもしれないと、家族との時間を大切にし、遺言まで伝えている。常に自分が死んだ時の準備をしているのだ。なぜ、白石は守るべき家族を持ちながら、死と隣り合わせの危険なレースに参加するのか? 白石にとって“冒険”が持つ魅力とは?