ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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12月3日(土)ゲスト:高岡浩三 (ネスレ日本株式会社代表取締役社長兼CEO)

ネスレ日本株式会社代表取締役社長兼CEO、高岡浩三。
ネスレは、スイスに本社を持つ、世界最大の食品会社。189カ国以上で事業を展開しており、その本社から功績を称えられた高岡は“ジャパンミラクル”と称されている。「成熟した日本市場ではこれ以上の成長は難しい…」そんな周囲の考えをよそに、高岡は社長就任直後から、低迷続きの業績を一転させた。高岡が打ち出す取り組みは、どれも斬新。オフィスにコーヒーマシンを設置する「ネスカフェアンバサダー」、通常のキットカットとは一線を画する、パティシエ監修の「キットカット ショコラトリー」シリーズの展開など。そして実は「キットカット」を受験生応援グッズとして定着させたのも、高岡の功績。それらのユニークな取り組みは、全て高岡のマーケティング理念である“顧客の問題解決”から生まれたものだった。
1960年、大阪で2人兄弟の兄として生まれた。成績優秀で運動神経もよく、ケンカも強いと評判のガキ大将だった。運命が大きく動いたのは、11歳の誕生日。父が、42歳の若さにして、肺がんで死去。くしくも祖父が亡くなった年も、42歳だった。「もしかしたら自分も42歳までしか生きられないのではないか―」そこから、高岡の逆算人生が始まった。
就職活動では、年功序列の日本型組織より、実力次第で早く出世ができる外資系企業に注目し、ネスレ日本に就職、営業部に配属される。「早く神戸本社のマーケティング部門へ行きたい…」そんな思いを抱きながら、現場との信頼関係を築き、下積み時代を過ごしていた。
苦境に立たされたのは、39歳の時。キットカットを販売する子会社のマーケティング本部長に就くと、ある難題を突きつけられる。「キットカットの利益率を5倍にせよ」。当時、キットカットなどの周知の人気商品は、広告だけでは売り上げに繋がらない時代だった。その時、高岡が注目したのは、九州地方の方言「きっと勝っとぉ」と「ホテル業界」。この意外な組み合わせが、全国に受験生応援キャンペーンの旋風を巻き起こす。人を引き付ける、その政策の着眼点とは?
国内外ともに評価の高い「ネスカフェアンバサダー」。その消費量は1日300万杯以上。もともと、安くておいしいコーヒーを手軽に飲めるように、という目的から始まったが、利用者自身でさえ気付いていなかった“心の問題”も解決に導いたという。見えない問題すら解決する、高岡の手腕とは?
高岡が発案した社内制度からは、「焼きキットカット」や「キットカットショコラトリー」といった新商品が、社員からの新しいアイデアによって発売されている。高岡のマーケティングの根底にあるものとは、一体何なのか?
インタビュアーは、前「AERA」編集長の浜田敬子。高岡浩三のユニークな発想の源と今後の展望に、これまで多くの経営者と対峙(たいじ)してきた浜田が独自の視点で鋭く迫る!

12月4日(日)ゲスト:鳥塚亮 (いすみ鉄道社長)

いすみ鉄道社長、鳥塚亮。
千葉県のJR外房線・大原駅と房総半島内陸部の上総中野駅までの26.8キロを結ぶ第三セクター、いすみ鉄道。1988年に旧・国鉄から引き継がれたが、2009年に鳥塚が社長になる前まで廃線の声もささやかれた路線だ。鳥塚は社長就任後、「過疎地の鉄道は必要がないのではないか?」という周囲の不安を払しょくするアイデアを次々と試み、ローカル線を観光化して新たな利用術を生み出している。
待ち合わせ場所は、いすみ鉄道の起点駅である大原駅。鳥塚とともにインタビュアーの映画監督・ヤン ヨンヒも列車に乗り、いすみ鉄道の魅力を聞くことから始まった。出発して数分で広がる“何もない風景”。ここにチャンスがある、と力強く語る鳥塚の、ビジネスの思考をひもといていく。
1960年、東京のサラリーマン家庭に生まれる。鳥塚少年の鉄道ファンぶりは、いわゆる“鉄ちゃん”とは少し異なり、ひたすら時刻表上で列車を追いかけること。学校が終わると東京駅に夜行列車の出発を見に行き、家に帰ると時計を眺めながら「今、あの列車は静岡を通過している」とその姿を頭の中に浮かべて楽しんでいた。
その後、明治大学商学部へ進学。卒業後の進路は当然「国鉄」志望。ところがその年、運悪く国鉄が民営化され、JRは新卒採用を行わなかった。「1~2年待てば…」とアルバイトで生活をつないでいたが諦め、27歳で航空会社へ就職。その後、外資系航空会社に移籍し、40代で旅客関係部門の責任者を任されるまでに。
家族は、中学の同級生だった妻と学生結婚。子ども5人に恵まれ、まさに順風満帆だった。そんな鳥塚に転機が訪れたのは、50歳の時。妻が何気なく見せてきた新聞の記事が、その後の人生を大きく変えることになる。
2009年、当時赤字ローカル線として廃線の危機にあった、第3セクター・いすみ鉄道に、大幅な収入減にもかかわらず乗り込んだ。50歳にしてかなえた少年時代の夢、しかも運転士ではなく社長として鉄道に関わることになった。しかし、当時の状況は“夢”などといえるものではなかった。社長就任のその日から、鳥塚のいすみ鉄道の存続をかけた戦いが始まる。「過疎化」「これといった観光地なし」「資金もなし」…“無し無し”尽くしの中から、鳥塚は世間をあっといわせる名PR文を作り出した。
「ここには“なにもない”があります」
この言葉を載せたポスターに、マスコミが飛びつく。新聞や雑誌にいすみ鉄道が取り上げられ、鉄道ファン以外の観光客が休日のいすみ線に乗りに来るようになった。その客層を見て、鳥塚はさらなる再生のためのアイデアを打ち出す。30~50代の女性を客として招くため、フィンランドのアニメキャラクターで日本人女性にも根強い人気がある「ムーミン」を取り入れ、房総半島の自然豊かな風景に溶け込ませた。他にも近隣の勝浦で水揚げされる伊勢エビを使ったフルコースが楽しめるグルメ列車も走らせた。「赤字の垂れ流しは耐えられないが、鉄道は残したい」と願っていた地元住民の協力もあり、“赤字ローカル線”が見事“人気ローカル線”に生まれ変わった。鳥塚は、さらに難題だった運転士不足の問題も鉄道ファンの心をくすぐる方法で解消。いすみ鉄道は、今や“日本の赤字ローカル線再生の手本”と称されるまでに。その活躍が認められ、2011年のビジネス・イノベーション・アワードをはじめ、対外的な評価も多数受けている。
「鉄道はファン商売」と語る鳥塚の、いすみ鉄道再生への戦略とはどのようなものなのか? 房総半島の四季折々の風景の中を走るローカル線のノスタルジックな映像とともに、県、地元、女性まで引き付けた経営者・鳥塚亮の魅力あふれる経営哲学を、ヤン ヨンヒがあぶりだしていく!