ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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3月4日(土)
ゲスト:カルメン・マキ(歌手)

ゲスト×インタビュアー
カルメン・マキ(歌手)×石原正康(編集者)

1951年、神奈川県鎌倉市で生まれる。父はアメリカ人、母は日本人。生まれて間もなく、父が帰国することになるが、肺結核を患っていた母とマキは、日本に残ることに。マキが物心つく前に父と離れてしまい、会った記憶はないという。
マキは、母方の祖父母がいる東京都大田区で育った。周囲からは、「父親のいないハーフの子」と、冷めた目で見られ、内気で暗い少女時代を過ごす。
高校中退後の1968年、小劇場ブームを巻き起こした、故・寺山修司氏主宰の劇団「天井桟敷」に飛び込む。寺山氏が作詞した「時には母のない子のように」は、重い旋律が時代の雰囲気と合致して、累計100万枚を超える売り上げを記録した。
その後も、個性的なキャラクターと確かな歌唱力でヒットを飛ばしてきたマキ。しかし、世間から求められる姿は、生身の自分とはかけ離れていた。「本当に言いたいことが言えない」「芸能界はつまらない」そんな時に出会ったのが、ジョニス・ジョップリンの歌う「ロック」だった。「ロックが歌いたい!」この時、マキは築き上げられたフォークシンガーとしての地位を投げ捨て、ロック歌手に転身する。
38歳の時、娘を授かる。10代で顔も名前も知れ渡ってしまった自分にも“歌手ではない人生”“平凡な幸せ”が手に入ると感じ、子育てと家事に専念しようと決断した。その時は「本当に歌手をやめようと思った」という。それなのに、気がつくと歌っている。「それは宿命なんですね…」マキは語る。
1993年、子守歌をテーマにしたアルバムを制作することになり、再び歌手として歩み始める。2014年にはデビュー45周年を迎え、自身が選曲を行なったベストアルバム「GOOD TIMES,BAD TIMES」を発売。今年3月にリリースされる新曲の「デラシネ」は、このころ感じていた違和感を、根無し草を意味するフランス語「デラシネ」という言葉に込めて、作詞した。最近の演奏活動も「デラシネライブ」と呼ぶ。絶望的な時代に抗したいという思いだ。
インタビュアーは、編集者・石原正康。歌手・カルメン・マキは、これまで何を思い、どのような人生を歩んできたのか? その波瀾(はらん)万丈の人生を、ベストアルバムに収められた名曲とともに振り返る。

3月5日(日)
ゲスト:長嶺ヤス子(舞踊家)

ゲスト×インタビュアー
長嶺ヤス子(舞踊家)×ヤン ヨンヒ(映画監督)

1936年2月、福島県会津若松生まれ。幼いころから踊るのが大好きだった長嶺は、3人姉妹の中でも特に父親に溺愛され、舞踊、乗馬、茶道、生け花などの稽古ごとを習った。大学時代のある時、フラメンコのレコードを聴いたのがきっかけで、スペイン舞踊に興味を持つ。
23歳の時、スペインへの私費留学生募集があると知った長嶺は、試験を受け合格。当時は、まだ日本人が30人ぐらいしか在住していないマドリード。長嶺は一流の指導者のもとで、連日8時間を超えるレッスンに励んだ。足の骨が折れ、ギブスをして歩けなくなったことも。私費留学生の送金額は月12万円。レッスン代、下宿代などを払うと、アイスクリームも買えない日々だったが、無我夢中の日々だったという。
やがて、フラメンコダンサーとして認められ始めると、日本人の長嶺は嫌がらせをされることもあった。しかし、裸足でサロンを巻いて踊る姿を見た大物ダンサーから「ヤス子独自のその踊りを大事にしろ」と励まされる。続けて長嶺の心強い味方が登場した。当時のトップダンサー、ホセ・ミゲルだ。彼が認めてくれたことで、踊りも生活もともにするパートナーとなり、次々に新作を発表していく。
ミゲルとともに、日本でも時々公演をしていたが、ある時、踊り手や楽師たちとともに来日した際、興行師に売り上げを持ち逃げされてしまう。必死に彼らの帰りの旅費を工面し、自分は日本に残るしかなかった。
この時、邦楽を聞いた長嶺は、日本の古典芸能の奥深さ、すばらしさを再認識し「これで踊りたい」と願った。まず頭に浮かんだのが、子どものころに祖母から聞いた「安珍清姫」の話。長唄の今藤政太郎氏が聞かせてくれた音色に感動し、「道成寺」で踊りたいと切望する。当時、「邦楽の演奏でフラメンコの踊り手が踊るなんて…」と、難色を示す劇場もあったが、今藤氏は積極的に協力してくれた。この「娘道成寺」は、芸術祭大賞を受賞。ニューヨーク公演でも、絶賛される。
続けて大勢の僧侶の声明を音楽として踊った「曼荼羅」も日本だけでなく、アメリカでも喝采を受けた。その後も、和の題材にフラメンコダンサーと楽士を呼び、笛や鼓、尺八なども含めて、他に類のない舞台を作り上げてきた。
長嶺にとって最も大切であり、また、彼女を縛り付けているともいえるのが、猫と犬。以前、長嶺は運転していた時に、猫をひいてしまった。病院に連れて行ったが間に合わず、荼毘(だび)にふして遺骨を持ち帰る。この日から、病気を患っていたり捨てられた猫と犬を見過ごせなくなり、家で飼い始めた。最初は都内で借りていた部屋で一緒に暮らしていたが、どんどん増え、今は福島に家を借りて犬と猫の住まいとしている。病気や事故で死ぬと、火葬して経をあげてもらい、遺骨を引き取る。現在その数は、1000を超えているという。福島の家のどの部屋の戸棚にも、遺骨が詰まっている。これほどに大切にする猫と犬たちは、長嶺にとってどのような存在なのか? 猫たちと暮らす福島の借家がやっと自分のものになった今、庭にこれまでの遺骨を埋葬し、碑を建てるのが、今の夢だという。
81歳を迎えた現在も、長嶺の創作意欲は衰えていない。今年も新作の制作に意欲的に取り組む彼女の将来の展望とは? 舞踊家・長嶺ヤス子の数奇な人生に、映画監督・ヤン ヨンヒが迫る!