ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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4月29日(土)
ゲスト:大倉忠司(株式会社鳥貴族 代表取締役社長)

ゲスト×インタビュアー
大倉忠司(株式会社鳥貴族 代表取締役社長)×浜田敬子(ビジネスインサイダー日本版統括編集長)

国産鶏肉を使用した焼き鳥をはじめ、食べ物も飲み物も全て280円(税別)、でおなじみの全国に500店以上展開する居酒屋チェーン「鳥貴族」の創業者だ。
1960年大阪で生まれた大倉が、飲食業と出会ったのは、高校時代のビアガーデンでのアルバイト。そこで飲食業の素晴らしさに感動し、この道で生きていくと決めた大倉は、大手ホテル、居酒屋勤務を経て、1985年、25歳の時、両親の家を担保に借金をし、地元・東大阪市の商店街にわずか9坪、27席の鳥貴族1号店をオープンさせた。しかし、念願だった開店にも関わらず、売上不振が続き、倒産の危機に…。「このままだと両親の家は銀行に取られ、家族も路頭に迷う…」ご飯も喉を通らないほど追い詰められた大倉を窮地から救ったのが、鳥貴族の代名詞280円均一(当時は250円)という安売りだった。この“安売り”が功を奏し、倒産の危機を脱した大倉は、鳥貴族のオープンから18年目の2003年、大阪の繁華街・道頓堀に念願の出店し大成功を収める。これをきっかけに、関東、東海と三商圏に出店を続け、今や500店舗を超える一大チェーンに成長、昨年東証一部にも上場し、名実ともに一流企業の仲間入りを果たす。東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年までには、1000店舗の出店を目指している。
オープン当時は、小さな居酒屋の若き店主でしかなかったにも関わらず、既に創業時からアルバイトたちにいずれ「鳥貴族を大チェーンにする」「東証一部に上場する」と宣言し、事あるごとに、鳥貴族の使命と目的を語り続けていたという大倉。実は鳥貴族にいる取締役4人は全員元アルバイト出身。大倉が語ったその理念に共感して入社、苦楽を共にしてきた者たちだ。また居酒屋に限らず、コンビニ・ラーメン店など多くのチェーン店は、外部からオーナーを募集してフランチャイズを展開するが、鳥貴族の場合、加盟するのはわずか14社のオーナーのみ、その全員が元アルバイトなど創業時から一緒にやってきた仲間だという。利益や経営だけを考えれば、外部オーナーを増やし、店舗を増やす方法もあっただろうが、それをしなかったのは大倉が“利益”だけで会社を経営してきた訳ではなく、ある使命と目的を実現させるためにやってきたからだ。それは、鳥貴族が営業中に掲げる看板に書かれている「うぬぼれ中」という言葉が指し示している。果たしてその言葉の意味とは?
また、長引く不況や若者のアルコール離れなどを理由に多くの居酒屋チェーンが売り上げを落とす中、なぜ鳥貴族は急成長をしているのか? 鳥貴族が多くの消費者に支持される理由、それは単なる安売りではなく、低価格ながら高品質の商品を提供することに尽きる。“安売り”であるにも関わらず、メインの焼き鳥はもちろん、フードメニューで使用する食材は全て国産を使用。ビール、ウイスキー、焼酎など、原価率の高いアルコールも例外なく280円均一。そして焼き鳥の串打ちは各店舗で行うなど、非効率とも言える “こだわり”を守り続けている。従来の居酒屋チェーンとは一線を画し、とても280円均一で採算がとれるとは思えない経営手法で、なぜ成功を収めることができたのか? なぜ、低価格で高品質の商品を提供できるのか? 280円均一に込められた哲学とは?
さらに、今後の展望についても。その使命と目的を次の世代に受け継がせるため、鳥貴族が取り組む試みとは? 夢を語り続け、小さな焼き鳥店を東証一部まで導いたカリスマ経営者の人生と経営哲学が赤裸々に語られる!

4月30日(日)
ゲスト:五輪真弓(シンガーソングライター)

ゲスト×インタビュアー
五輪真弓(シンガーソングライター)×石原正康(編集者)

1972年、21歳の時に「少女」でデビュー。透明で伸びのある歌声と、独特の寂しげなメロディー、そしてミステリアスな雰囲気で一躍人気を得、女性シンガー・ソングライターのパイオニア的存在として活躍してきた。
生まれは、東京・中野区、3人兄姉の末っ子。小学生のころに興味を持ったのは、ラジオから流れてくる歌謡曲だった。美空ひばりなどをまねて歌うことが得意だったという。中学生になるころにはビートルズに心を奪われ、フォークやロックなど、さまざまな音楽に影響を受ける。高校1年生の時には、父に懇願して買ってもらったギターを夢中で練習し、英語の曲を弾き語りで歌うように。
しばらくして五輪に最初の大きな転機が訪れる。卒業生を送る会でジョーン・バエズの「ドンナ・ドンナ(ドナドナ)」をソロで歌うことになったのだ。今まで、人前で歌ったことがなく、さらにものまねばかりだった五輪が、初めて自分の声を披露した瞬間だった。会場は、割れんばかりの拍手と大歓声に包まれたという。この時、五輪は喝采を浴びる喜びを知った。
これを機に、当時人気だったフォーク喫茶や米軍キャンプで歌声を披露するなど、人前で歌い続けた五輪。19歳の時、ラジオ番組のオーディションに合格したことをきっかけに、プロデビューの話が舞い込む。すると五輪は、ただ単に歌手としてではなく、自分で歌詞とメロディーを作りそれを歌うシンガー・ソングライターとしてデビューするため、曲作りを始める。そして、1972年21歳の時に「少女」でアルバムとシングルデビュー。独特の曲調と詞、そして透明で伸びのある圧倒的な歌唱力で人気を集め、オリコン6位を記録した。歌い手として華やかな道を歩み始めた五輪だったが、当時のインタビューなどでは口数が少なく、スターというよりはミステリアスな印象を与えてきたという。
デビュー4年目には、レコーディングのためにパリを訪れる。そして、シャンソンの大人気歌手アダモのステージで歌うなど、半年にわたりパリに滞在した。この時の経験が、五輪の価値観を変えた。観衆に訴える曲作りに目覚めた五輪は、究極の別れの曲を作りたいと考え、1980年「恋人よ」を発表。大ヒットを記録し、レコード大賞金賞を受賞、その年の紅白歌合戦にも初出場を果たす。
美空ひばりをはじめ国内だけでも20人以上の歌手がカバーするなど、後世に残る名曲となった「恋人よ」。さらに、香港や台湾、韓国など海外でも人気歌手にカバーされ、大きな賞賛を浴びた。「恋人よ」の歌詞の一節には、ある親しい人が、突然亡くなった悲しみが刻まれているという裏話も…。その真相が明かされる。
その後、五輪に再び転機が訪れる。33歳を目前に結婚、そして出産…。以降、心境や環境などの変化により、これまでと全く違う五輪真弓の世界を表現していくことになる。それと同時に、年間130回も行っていたコンサートは縮小し、ついには活動を休止。しかしこんな時でも、五輪の曲は世界で歌われていた。インドネシアでは、1982年に発表された「心の友」という楽曲が、第二の国歌といわれるほど人気に。約2億5千万人の国民のほとんどが日本語のこの歌を認知し、今も現地で歌い継がれている。
心の声をメロディーに乗せ、多くの人に思いを届けてきた五輪。人生の転機とともに変化してきた、曲作りへの姿勢と熱い思いとは? これまでベールに覆われていたシンガー・ソングライター五輪真弓の、知られざる素顔が明らかに!