ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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6月3日(土)
ゲスト:泉谷しげる(シンガーソングライター・俳優)

ゲスト×インタビュアー
泉谷しげる(シンガーソングライター・俳優)×小島慶子(タレント、エッセイスト)

1948年、5人兄妹の次男として、青森県で生まれる。父親は大工。3歳の時、一家は東京の目黒区に移り住んだ。意外にも、少年時代は身体が弱く、内気な性格。夢は漫画家になることだったという。破天荒なキャラクターは、どのようにして生まれのか? そこに隠された、意外な事実とは?
音楽との出会いは、1963年、15歳の時。友人から「ギターを持って立っているだけでいい」とリクエストがあり、ローリング・ストーンズのコピーバンドを始める。フォークへの転向は、その4年後。そのきっかけは、何と“火事”だった。自宅で預かっていたバンドの楽器や機材が、全て燃えてしまったのだ。この出来事が、泉谷をフォークの世界へ導いた。
音楽の師匠は、忌野清志郎。泉谷がまだ二十歳の時、3歳年下の清志郎が「RCサクセション」でデビューを果たす。その存在そのものに衝撃を受けた泉谷は、あの手この手を使って、清志郎に近づこうと試みた。清志郎に奮い立たされた泉谷は、野外コンサートに乱入。観客を騒然とさせる歌を披露する。それは、当時勃発していたベトナム戦争への反戦歌だった。
1971年、23歳でメジャーデビュー。翌年、その名が全国区になる大ヒット曲が生まれる。それが、2013年の紅白歌合戦に初出場した際に熱唱した「春夏秋冬」だ。わずか15分でできたという、その曲の誕生の舞台裏とは?
1974年、井上陽水、小室等、吉田拓郎とともにレコード会社を設立。当時、ミュージシャンがレーベルを持つことは斬新なことだった。しかし、会社の経営に時間が割かれるようになると、2年後、泉谷だけが会社を去った。すると、“フォークの裏切り者”と呼ばれ、ファンが一気に激減。貯金で食いつなぐ日々に…。そんな時、舞い込んできたのが、役者としての仕事だった。“戦後最大の誘拐事件”の犯人役を泉谷は見事に演じ、称賛を浴びる。この時、泉谷にオファーをした意外な人物とは?
今回のインタビューの舞台は、東京・目黒で泉谷が行きつけの、京都のおばんざい屋。リラックスした雰囲気の中、フォークへの思い、被災地救援のチャリティー活動の舞台裏、そして人生を元気に楽しく生きる秘訣(ひけつ)…古希を前に、泉谷しげるの知られざる「裸の履歴書」が明かされていく。今回、泉谷から垣間見えた素顔には、毒の中にもキラリと光る優しさがあった…。

6月4日(日)
ゲスト:稲川素子(稲川素子事務所 代表)

ゲスト×インタビュアー
稲川素子(稲川素子事務所 代表)×ヤン ヨンヒ(映画監督)

テレビ番組や映画にCM…あらゆるメディアに外国人タレントを派遣している稲川素子事務所だが、稲川が専業主婦から一念発起し、タレント事務所を設立したのは51歳の時。ピアニストの娘がドラマ撮影に臨んだ際、外国人の出演者を探していた監督に、外国人を紹介したことがきっかけだった。以来30年余り、プロダクションは142カ国、5200人以上の外国人が在籍するまでに成長した。
1934年、福岡県柳川市生まれ。父は地元の名家出身、敷地1万坪の屋敷で何不自由ない幼少期を送る。しかし、戦後に九州から東京に移り住むと食糧不足に苦しめられた。極度の貧血を患い、高校時代の体重はわずか37キロ。そんな稲川に救いの手を差し伸べてくれたのが、なんとあのダグラス・マッカーサーだった。稲川が教会の聖歌隊に参加した時、礼拝に訪れたマッカーサーが痩せ細っていた稲川を見かねて、ベーコンエッグをごちそうしてくれたという。
1956年、22歳で結婚。お相手は、三井鉱山に勤める稲川長康。出産準備を進めていると逆子であると分かり、医師から帝王切開を提案される。この時、過去に盲腸手術の麻酔ミスで一時半身不随になったトラウマが、稲川の脳裏によみがえった。そのため、麻酔なしの帝王切開で娘を出産。娘の佳奈子は、稲川と二人三脚でピアノの練習に打ち込み、今はピアニストとして活躍している。
会社を起こしてからというもの、絶えずチャレンジを続けてきた稲川素子。麻酔ミスでやむなく中退した慶応大学文学部に、65歳で再入学。さらに72歳の時には、東京大学大学院に3度目の挑戦で合格。自らの職業を研究テーマに生かして国際社会科学を専攻し、博士課程では大腸がんと闘いながら博士論文を書き上げた。
稲川素子、現在、83歳…。生涯現役の信念を支える、そのバイタリティーの源に迫る!