第27回 民教協スペシャル キ・ボ・ウ ~全村避難 福島県飯舘村二年の記録~

第27回 民教協スペシャル キ・ボ・ウ ~全村避難 福島県飯舘村二年の記録~

番組概要

あの日、雪さえ降らなければ・・
福島県飯舘村は、今も阿武隈山系ののどかで美しい村だったかもしれない。
村は、人口約6000人、福島第一原発からは30キロ以上離れ、原発の恩恵を受けることもなく独自の村作りをしていた。

しかし、2年前のあの日、福島第一原発から流れ出した強い放射性物質は、雪に巻き込まれる形で、静かに村に降り積もった。多くの村人は、学者の「心配することはない」という言葉を信じた。

やがて、村は「計画的避難地域」となり全村避難、原発被害の悲劇の村として、繰り返しメディアで紹介されるようになった。そんな中、菅野典雄村長は、"2年で帰村する"と宣言した。

あの日から2年、飯舘村はまた雪の季節を迎えている。飯舘村の人々はどう過ごしてきたのだろうか?福島テレビは、突然降り掛かった災難で村を追われた美しい村の住民が、揺れ動く行政に翻弄され、離散生活に苦しみ、除染や村のあり方を巡って対立しながらも、キボウを模索しつづける2年間を追った。

番組概要

飯舘村の村民は、今、福島市などで避難生活を送っている。
菅野典雄村長は「除染して村へ帰ろう」と、2年で村へ帰ると宣言したが、除染は、思うようには進まない。「帰りたいけど帰れない」「もう帰りたくない」など、・・村長を中心にまとまっていた飯舘村のひとびとの心は、今、バラバラだ。

菅野村長の座右には、事故直後、全国から送られてきたファックスの束がある。「人殺し!」と避難の遅れの責任を糾弾するものや、「がんばってください」という激励まで。村長は、時折それを取り出して読むという・・村の命運を託された男の孤独な時間だ。

村長は、飯舘村に生まれ、酪農を経験した後、村長として長年村作りに献身してきた。しかし、村の未来を巡って、盟友と決別した。村長は「原発事故の恐ろしさは、津波や地震被害と違って、被災者の心まで引き裂いてしまうことだ」という。そして、キボウは「除染して村に帰る」ことだ、と繰り返す。

村長を理解し支持してきた酪農家の長谷川健一さんは、今、「除染して村に帰る」という村長の考えは、非現実的で夢だと真っ向から反対している。長谷川さんによれば、飯舘村はその75%が山であり、山の除染は実際無理だと考えるからだ。雨が降れば、山の放射能が流れ落ちてくる。居住部分の除染をしても、農地の除染が進まなければ、土とともに生きてきた人々は生活の糧を失う。長谷川さん自身も35年続けてきた酪農を廃業せざるを得なかった。だから、別の天地に新しい村を作ろう!と長谷川さんは言う。

濃密な絆で結ばれていた村人の心は、被ばくの問題や、風評被害、家族離散、先の見えない不安、そして、除染や帰村を巡って対立し、引き裂かれ、揺れ動いている。絶望と諦めが頭をよぎる。
しかし、そんな中でも、人々はなんとか希望をもって前へ進もうとしている。

渡邊とみ子さんと、元農業高校教諭の菅野元一さんは、避難生活を送りながらも、30年もかけて品種改良、開発してきた飯舘村オリジナル品種の「イータテベイク(じゃがいも)」と「いいたて雪っ娘(カボチャ)」の種をつなぐことに全力を注いでいる。渡邊とみ子さんは言う。「飯舘というと汚染されたイメージがある。しかし、私は飯舘を伝えたい、残したい」
その一念で、菅野元一さんとともに植える場所を探し、なんとか種を繋いできた。それは、まさに希望の種だ。

やませの影響でしばしば冷害に見舞われた飯舘村、全く米がとれない年さえあった。その時、村民の主食となったのはジャガイモとカボチャだった。菅野元一さんは、冷害を何度も経験しながら、あきらめることなく村を復興してきた村人の力を信じたいという。

あの雪さえ降らなければ・・
しかし、事故は現実に起きてしまった。
「愚痴や恨み言をいうのはもうよそう」そういって菅野村長はふるさと再興に懸命に取り組んでいる。

一方、現実を見て前へ進もうと新しい村の必要性を訴え続ける長谷川健一さん、飯舘の種を残すことに希望をつなぐ渡邊とみ子さんと菅野元一さん・・
それぞれの希望の形は違うが、村を愛する気持ちは同じだ。
飯舘村、2年目の冬・・人々は遠い春を待ちながら、一歩一歩進もうとしている。