国仲涼子のフランス美食紀行 ~マリー・アントワネットともうひとりのマリー~

国仲涼子のフランス美食紀行 ~マリー・アントワネットともうひとりのマリー~

お知らせ

【放送日時】
2015年6月28日(日)夜9:00~10:54放送

番組概要

女優・国仲涼子がフランス料理に秘められた物語をたどり、フランス・パリへ。王妃マリー・アントワネットと「もうひとりのマリー」の存在を鍵に、フランス料理誕生にかかわる謎をひもとく。
完全再現されるマリー・アントワネット最後の食事も必見!

フランスの華麗なる王妃、マリー・アントワネット。彼女はフランス革命で悲劇的な最期を遂げた歴史的ヒロインとしてその名を歴史に刻んでいる。そんなマリー・アントワネットが飢餓に陥って反乱を起こした民衆に向かって発言した言葉、「パンがなければケーキを食べればいい」。この言葉には、どのような意味が込められているのだろうか? そして、彼女が変化をもたらしたというフランスの食文化。今や世界三大料理のひとつとされる「フランス料理」。その歴史をひもといていくと、不思議なことに、フランス料理の誕生の裏には、同じ名前の人物「もうひとりのマリー」の存在があった。
料理は「皿の上の歴史書」。美食の都、フランス・パリで女優・国仲涼子が2人のマリーとフランス料理誕生にかかわる謎をひもとく旅へ。華麗なる美食の秘話に迫る!

放送内容

◎マリー・アントワネットが最後に食べたメニューを完全再現!
フランス革命が起き、捕らわれの身となった国王一家はタンプル塔に幽閉された。タンプル塔は現在のフランス・パリ3区にあった修道院。ルイ16世は死刑に処され、マリー・アントワネットはコンシェルジェリー刑務所へ移されることになる。彼女の本当の思いは最後まで人々に伝わることがなかった。そんな彼女が最後に食べた食事とはどんなものだったのか? 国仲さんが訪れたのはパリ3区のモンモランシー通りにあるレストラン。実はこの建物、錬金術師ニコラ・フラメルにより1407年に建てられたもので、現在パリで最も古い家であるとされている。シェフのアラン・ジェアムさんがマリー・アントワネットが最後に食べたという料理を完全再現する。

◎「フランス料理の父」マリー=アントナン・カレーム
1793年10月、マリー・アントワネットは処刑された。この頃、期せずしてマリー・アントワネットと同じ名前の少年が、スープ職人の道を歩もうとしていた。1789年に起こったフランス革命は、フランスの食文化に影響を与える事件で、王政の崩壊で貴族らが権力の座より失墜したことで、彼らのコックらが自身のレストランを次々と開店し、職を得た。これがフランスのレストラン時代の始まりといわれている。1784年、貧しい一家に生まれ、捨て子として10歳のときに大衆食堂の下働きを始めた1人の少年。その名は、マリー=アントナン・カレーム。大衆食堂で彼が最初にのめりこんだのは、スープだった。レストランの語源になったともいわれるブイヨン。フランス国内のレストランではブイヨンが使われた4つのソースが基本ベースとして用いられている。この4つのソースを作り上げた男こそ、マリー=アントナン・カレームである。国仲さんはパリ最古のレストラン「ラ・プティット・シェーズ」を訪ね、4つのソースがどのようなものなのか、ソースがどのような料理に使われていたか、実際に試食する。

◎エクレアや装飾菓子(ピエスモンテ)を作ったマリー=アントナン・カレーム
さらにカレームは宴会、結婚、イベント、パーティ用で使われる、菓子を高く積み重ねて作るディスプレイ用の装飾菓子、ピエスモンテを開発。19世紀初頭、ナポレオン帝政下の外相・タレーラン邸に出入りし、パーティの引き菓子を依頼された折に、初めてエクレアを作り、フランスのスイーツ界に革命をもたらしたといわれる。国仲さんは、実際にピエスモンテやエクレア作りに挑戦! カレームが生み出したスイーツの数々、またそれを作るために考えたというさまざまな調理道具とは?

■旅人:国仲涼子