
アジアの東の端に位置する日本と、アジアの西の端に位置するトルコ共和国───トルコの面積は日本の約2倍、人口6800万人あまり。
首都はイスタンブールではなく、アンカラ。
サッカー元日本代表のジーコ監督が活躍したというニュースが伝わる程度で、その文化や歴史、習慣にいたっては、日本ではほとんど知られていないといっても過言ではない。
今から117年前、トルコは、13世紀から20世紀初頭まで、“オスマントルコ”という名で大帝国を築いていた。アジアとヨーロッパをつなぐシルクロードの中継地点。幾重にも重なった歴史と文化は、この国で融合され昇華していった。当時、明治天皇への謁見のため、11ヶ月に及ぶ航海の末、オスマン帝国が誇る木造艦“エルトゥールル号”が、700名近くの乗組員とともに横浜港に入港した。3ヶ月の停泊の末、帰国の途についたエルトゥールル号は、台風の影響によって、本州最南端の地・和歌山県串本沖で沈没するという事故が発生した。この時、陸に流れ着いたトルコ人遭難者を住民総出で救出し、懸命な看護に当たり、貴重な食糧を供出するなど、手厚く保護したのが、地元の日本人漁師たちであった。乗組員656名のうち、587名のトルコ人が漆黒の海に飲み込まれるという大惨事。しかし村人の必死の作業のおかげで、69名もの命が奇跡的に救出されたのだ。
エルトゥールル号の悲劇から95年の時を隔てた1985年、イラン・イラク戦争の際にも、両国の固い友情の絆を示すエピソードが存在する。
イラクのサダム・フセイン大統領が突然発表したイラン空爆の攻撃声明。
この声明に全世界は戦慄に包まれ、イランの首都テヘランは大パニックとなり、各国の人々が次々と国外脱出を図る中、航空機を手配できない日本人200人がイランに取り残されるという事態に陥ってしまった。
イランへの定期就航便を持たない日本の航空機は現地に入れず、ヨーロッパの航空会社は既に定期便をキャンセル。どの国も自国民の救出を優先するため、臨時便に切り替えていた。日本人はチケットを持っていても搭乗することができなくなっていたのだ。
そんな絶体絶命の窮地に立たされている時、危険を承知で2機の航空機を飛ばし、日本人を救ってくれたのが、なんとトルコだった。この“死のフライト”に実際に立ち会った、当時の機長や乗客の生々しいインタビューとともに、刻一刻と空爆開始のタイムリミットが迫る当時の様子を、緊張感タップリにお伝えする。
イラン・イラク戦争当時、新聞社の特派員としてテヘランに滞在していたジャーリストの鳥越俊太郎氏が番組をナビゲート、自身の体験を踏まえ、両国の友好の歴史と未来を語る。
(2007年3月初回放送)

