うたの旅人

うたの旅人

  • トップページ
  • バックナンバー
  • contents3
  • contents4

バックナンバー

初回放送:2009年10月9日「長崎は今日も雨だった」




「長崎もの」。レコード業界の「ご当地ソング」と呼ばれるジャンルでは東京、大阪と肩を並べるほど多い。その中で、「長崎は今日も雨だった」は「長崎もの」の決定盤として、位置づけられる。今回はこの「長崎は今日も雨だった」誕生をめぐる秘密を探る旅である。

長崎は今日も雨だった。なぜか「長崎もの」の歌詞には雨がよく降る。
長崎は雨が多いのだろうか? 否。長崎県の降水量は、全国平均と比べそれほど多くはない。事実、「長崎は今日も雨だった」が発売された1969年の夏は、晴天続きで水不足に悩まされたという。
だが、長崎には雨がよく似合う。洋館と石畳の街に降る雨は、旅人をそこはかとない旅情に誘い込む。しかし、「長崎は今日も雨だった」誕生にはそんな旅情を吹き飛ばす、激しいバトルがあった。
企業の交際費が青天井と言われた高度成長時代、長崎の街もご多分にもれず、社用族御用達のキャバレ-全盛時代であった。
キャバレー『銀馬車』vsキャバレー『十二番館』。この二つのライバルキャバレーの意地の張り合いから「長崎は今日も雨だった」が生まれた。
『十二番館』の専属バンド、コロラティーノが1968年「思案橋ブルース」を発売、チャート3位に入るヒットを飛ばしていた。負けるわけにはいかないと『銀馬車』は専属バンドから急遽6人編成のバンドを結成、「長崎は今日も雨だった」発売に突き進む。まさに社命であった。所属のホステスさん達は、一人100枚づつ買いお客さんに配ったという。しかし、おもわしくなかった。
転機はマネジメントを、地元の事務所から東京の大手プロダクションに代えてからである。効果は絶大であった。一度火がつくと、みるまにヒットチャートを上昇、その勢いで年末の紅白歌合戦に初出場を果たした。その後歌謡界を代表するコーラスグループとなり、 「そして、神戸」「中の島ブルース」「東京砂漠」とヒットを連発、歌のタイトル同様、地元出身の6人は長崎に帰るきっかけを失ってゆく。
今回はクールファイブのベース担当の小林正樹さんと、想い出の地長崎を訪ね、この歌にまつわる秘話を明らかにする。