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#313

志穂美 悦子(フラワーアクティビスト)

ゲスト×インタビュアー
志穂美 悦子(フラワーアクティビスト)×舘野晴彦(編集者)

インタビューの場所は、東京・田園調布にある「花工房 胡桃」。志穂美がフラワーアクティビストとして活動を始めた原点ともいえるこの場所で、志穂美は何を語るのか?
1955年、岡山県生まれ。幼いころから身体能力が高く、小学校6年生の時の体力テストでは、男子も含めて全種目、学年で一番の成績だった。そのころの夢は、体育の先生。そんな志穂美が大きな衝撃を受け、後の人生を変えることになったのが、テレビドラマ「キイハンター」だった。千葉真一のアクションに毎週魅了され、夢は体育教師からアクション女優へと変わっていく。
17歳の時に、JAC(ジャパン・アクション・クラブ)のオーディションに合格。朝から晩まで続くアクションの訓練に耐え、1973年「ボディガード牙・必殺三角飛び」で映画デビューを果たす。1974年、19歳の時には、「女必殺拳」で初主演。日本のアクション女優、第1号となった。
名実ともに“アクション女優・志穂美悦子”の名を広める中、バラエティー番組への出演オファーがあった。それは、当時大人気だった萩本欽一の「欽ドン!」。萩本から「あなたの本来のかわいさを出してあげたいな、そうしたら女優に戻った時に役者になるよ」といわれ、出演を決意。しかし、笑いのテンポやリズムがわかるようになるまで苦労した、と当時を振り返る。その時、萩本が丁寧に手取り足取り、教えてくれたという。
バラエティー番組で鍛えられた志穂美の演技の幅は広がり、ホームドラマへの出演が決まる。1978年から放送された「熱中時代」では、ドラマのマドンナ的な存在を演じ、1984年に出演した「上海バンスキング」では、日本アカデミー賞助演女優賞優秀賞を受賞。さらに、1986年にはドラマ「親子ゲーム」で長渕剛と共演し、翌年、長渕と結婚して専業主婦に。芸能界の表舞台から去り、妻として、3人の子どもの母親として家族を支えてきた。
2011年、子育てが一段落したことで始めたのが、花を扱う仕事。きっかけは、義父の年忌に供花としてもらった濃いワイン色の花だった。それを目にした時、花への興味が一気に湧いたという。さらに、東日本大震災をきっかけに被災地でのワークショップや、自費出版した花の写真集の売り上げの一部を寄付するなど、積極的に花の活動に力を入れてきた。2014年には奈良薬師寺「聖観世音菩薩に捧げる花展」で奉納。2015年からは、3年連続で「世界らん展日本大賞」に作品を出展。先月東京ドームで開催された「世界らん展日本大賞2017」では、古木を使った「阿吽」という名前の作品を展示したうえ、アクションさながらのパフォーマンスで作品を作り、多くの観客を魅了した。
日本初のアクション女優から、結婚・出産・子育てを経て、フラワーアクティビストとして再び活動を始めた志穂美悦子の半生と、花とともに歩みを進める今後の展望に迫る。