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#321

舟木一夫(歌手・役者)

ゲスト×インタビュアー
舟木一夫(歌手・役者)×嶌信彦(ジャーナリスト)

さわやかな好青年という印象が強いが、実は壮絶な少年期を過ごしている。劇場などを経営していたという父は、いわゆる“遊び人”。なんと小学生2~6年生までの間に8人もの母親がいて、「最短では一泊二日という人までいた」と笑いながら振り返る。壮絶な苦境を乗り越えてきたバイタリティーは、この幼少時代に培われたのかもしれない。
1963年に、「高校三年生」で歌手デビュー。しかし、オーディション番組などがなかった当時、デビューできたのは偶然の巡りあわせだった。たまたま行ったジャズ喫茶でのコンサートで「誰か一緒に歌う人」と呼びかけられた際、唯一手を挙げたのが舟木だったのだ。しかし、実際には隣にいた友人のいたずらで、舟木は手をつかまれて気が付いたら手を挙げていたという。たまたまそこに居合わせた雑誌記者の目に留まり、さらにはその記者から話を聞いた芸能事務所の社長に目を掛けられて…、という幸運に幸運が重なった結果のデビューだった。
「高校三年生」が大ヒットし、橋幸夫、西郷輝彦らとともに“御三家”と呼ばれ、人気を欲しいままにする。しかし、この時舟木は、“御三家”の中で自分が最初に人気が無くなるだろう、と予想していた。その真意とは? 
人気絶頂だった当時について、「下積み生活が無く、生意気だった」と自らを振り返る舟木。やがて新しい音楽が世に出始めると、人気だった学園ソングやさわやかな印象がかえって邪魔をし、新しい仕事がこなくなった。紅白連続出場も途絶え、仕事は減る一方だった時、歌手を辞めて故郷に帰ろうと決意。しかし、そんな彼を踏みとどまらせたのは、恩師であり作曲家の船村徹の強烈な一言だった。深夜にかかってきた船村からの電話で引退は諦めたが、それはこの先10年以上も続くこととなる、長い不遇時代の始まりでもあった。
この苦しい時期を自ら“寒い時代”と呼ぶ舟木だが、ここを抜け出すため、舟木はあることを始める。それは、自分の置かれた状況と求められていることの分析だった。そして、30周年記念コンサートを機に、舟木は見事よみがえる。今ではコンサートを開けばファンが集まり、チケットは売り切れ続出の、まさに第二の絶頂期。その自己分析と復活するための作戦とは、一体どのような内容だったのか?
往年のスターが表舞台から姿を消すことは、珍しいことではない。しかし、一度姿を消したスターが再び復活を遂げるのは、生易しいことではない。それをやってのけた舟木の生きざまを支えたのは、彼自身の冷静な自己分析にほかならない。天国と地獄の両方を味わった舟木が経験した、不遇の時代を乗り越えるための秘策とは? 同世代を生きてきたジャーナリスト・嶌信彦が鋭く解析する!