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#325

五輪真弓(シンガーソングライター)

ゲスト×インタビュアー
五輪真弓(シンガーソングライター)×石原正康(編集者)

1972年、21歳の時に「少女」でデビュー。透明で伸びのある歌声と、独特の寂しげなメロディー、そしてミステリアスな雰囲気で一躍人気を得、女性シンガー・ソングライターのパイオニア的存在として活躍してきた。
生まれは、東京・中野区、3人兄姉の末っ子。小学生のころに興味を持ったのは、ラジオから流れてくる歌謡曲だった。美空ひばりなどをまねて歌うことが得意だったという。中学生になるころにはビートルズに心を奪われ、フォークやロックなど、さまざまな音楽に影響を受ける。高校1年生の時には、父に懇願して買ってもらったギターを夢中で練習し、英語の曲を弾き語りで歌うように。
しばらくして五輪に最初の大きな転機が訪れる。卒業生を送る会でジョーン・バエズの「ドンナ・ドンナ(ドナドナ)」をソロで歌うことになったのだ。今まで、人前で歌ったことがなく、さらにものまねばかりだった五輪が、初めて自分の声を披露した瞬間だった。会場は、割れんばかりの拍手と大歓声に包まれたという。この時、五輪は喝采を浴びる喜びを知った。
これを機に、当時人気だったフォーク喫茶や米軍キャンプで歌声を披露するなど、人前で歌い続けた五輪。19歳の時、ラジオ番組のオーディションに合格したことをきっかけに、プロデビューの話が舞い込む。すると五輪は、ただ単に歌手としてではなく、自分で歌詞とメロディーを作りそれを歌うシンガー・ソングライターとしてデビューするため、曲作りを始める。そして、1972年21歳の時に「少女」でアルバムとシングルデビュー。独特の曲調と詞、そして透明で伸びのある圧倒的な歌唱力で人気を集め、オリコン6位を記録した。歌い手として華やかな道を歩み始めた五輪だったが、当時のインタビューなどでは口数が少なく、スターというよりはミステリアスな印象を与えてきたという。
デビュー4年目には、レコーディングのためにパリを訪れる。そして、シャンソンの大人気歌手アダモのステージで歌うなど、半年にわたりパリに滞在した。この時の経験が、五輪の価値観を変えた。観衆に訴える曲作りに目覚めた五輪は、究極の別れの曲を作りたいと考え、1980年「恋人よ」を発表。大ヒットを記録し、レコード大賞金賞を受賞、その年の紅白歌合戦にも初出場を果たす。
美空ひばりをはじめ国内だけでも20人以上の歌手がカバーするなど、後世に残る名曲となった「恋人よ」。さらに、香港や台湾、韓国など海外でも人気歌手にカバーされ、大きな賞賛を浴びた。「恋人よ」の歌詞の一節には、ある親しい人が、突然亡くなった悲しみが刻まれているという裏話も…。その真相が明かされる。
その後、五輪に再び転機が訪れる。33歳を目前に結婚、そして出産…。以降、心境や環境などの変化により、これまでと全く違う五輪真弓の世界を表現していくことになる。それと同時に、年間130回も行っていたコンサートは縮小し、ついには活動を休止。しかしこんな時でも、五輪の曲は世界で歌われていた。インドネシアでは、1982年に発表された「心の友」という楽曲が、第二の国歌といわれるほど人気に。約2億5千万人の国民のほとんどが日本語のこの歌を認知し、今も現地で歌い継がれている。
心の声をメロディーに乗せ、多くの人に思いを届けてきた五輪。人生の転機とともに変化してきた、曲作りへの姿勢と熱い思いとは? これまでベールに覆われていたシンガー・ソングライター五輪真弓の、知られざる素顔が明らかに!