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#329

木下唯志(木下サーカス社長)

ゲスト×インタビュアー
木下唯志(木下サーカス社長)×吉永みち子(作家)

1902年の創立から、今年115年を迎えた木下サーカスの社長・木下唯志。世界に300頭しかいないホワイトライオンの世界猛獣ショーやかわいらしいゾウやシマウマのショー、さらに地上13mの高さで繰り広げられる空中ブランコショー、幻想的な踊りや日本古典芸など…多彩なショーの数々は、子どもから大人にまで大人気。木下サーカスは、今や世界3大サーカスに数えられるほどに成長した。日本のサーカスは、全盛期には30ほどあったが、時代の流れとともにその多くが廃業に追い込まれていく。木下サーカスも、その例外ではなかった。木下が4代目社長に就任した1990年には、10億円に近い負債を抱えていたのだ。一度は消えかかったサーカスの“火”を、再び興隆に導いた木下の手腕とは? 年間120万人もの観客動員を誇る、木下大サーカスの魅力に迫る。
1950年、岡山県生まれ。チンパンジーやゾウなどの動物たちに囲まれて幼少時代を過ごした。大学卒業後、都市銀行に内定が決まっていたが、あることがきっかけとなり木下サーカスに入社。木下家の御曹司とはいえ、朝は4時に起きて動物のふんの掃除。さらに道具の出し入れなど、下っ端の仕事を経験し、次第に仕事を覚えていく。その後、サーカスの花形・空中ブランコでデビューを飾った。
空中ブランコで人気をはくし3年目、まさかのアクシデントが木下を襲う。公演中に高所から落下し、首の頸椎(けいつい)を損傷してしまったのだ。さらに、このけががきっかけで肺炎にかかり、3年間の闘病生活を強いられた。そんな危機から救ってくれたのが、1カ月間の断食を行う断食道場だった。木下は、ここで健康よりも精神を学んだという。
1981年には、営業職として仕事復帰。すでに兄が3代目社長を継いでいたため、兄弟で木下サーカスの経営を行なうことに。しかし、時代の流れとともに客足が遠のき、公演するごとに負債が増えていった。そして兄が倒れ、4代目社長の座に木下が就くことになる。就任時、10億円近い負債を抱えていたため、周囲からは木下サーカスをたたむことを勧められ、辞めていくスタッフもいた。しかし、反対を押し切って公演を続けた。逆境の中、公演を行った心境とは?
その後、10億の負債を10年かけて返済。その手腕の裏には、「最高の場所で公演し、根気よく営業を行い、ショーを進化させる」という“1場所、2根、3ネタ”という父の教えがあった。さらに、節約を徹底し、舞台に上がる団員も接客やトイレ掃除までを行なっている。年間4~5カ所、全国を回って公演を行うが、団員や音響照明のスタッフも全員テントの裏に設置されたコンテナで生活。テントの設置や解体、スタッフ全員で行うという。“社員は家族”と語る木下の、人の気持ちを動かす方法とは?
今回は、進化し続ける木下大サーカスのショーも特別に公開! ホワイトライオンの猛獣ショー、目隠しして飛ぶ空中ブランコ、人間業を超えたフラフープやジャグリング、決死の空中大車輪など、興奮と感動に満ちた夢のショーは必見!
サーカスの未来、それはサーカス文化を芸術にするということ。その言葉の奥には、サーカスを絶やしたくない、という木下の熱い思いがあった。