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#347

浅野忠信(俳優)

ゲスト×インタビュアー
浅野忠信(俳優)×ヤン ヨンヒ(映画監督)

1973年、神奈川県横浜市生まれ。母方の祖父はアメリカ人で浅野も幼少期は金髪だった。本人にそのつもりはなくても何かと目立ち、からかわれていたという。母は、束縛されない自由な生き方を愛し、「本当に好きなことをやりなさい」と浅野を育てた。一度も会ったことがない、祖父への思いとは?
1988年 芸能の仕事をしていた父がきっかけとなり「3年B組金八先生」のオーディションを受け見事合格、俳優デビューを果たす。浅野にとって金八先生の現場は、学校のようで楽しくて仕方がなかった。1990年には、映画「バタアシ金魚」で映画デビュー。しかし、俳優をやりたくないと思うほど、ショックな出来事もあった。当時の浅野の心境とは?
20代になり、数々のミニシアター系の映画で難役を演じてきた浅野。彼には芝居するうえで心がけていたことがある。それは、芝居をしていていないように芝居をする「自然な演技」。こう思ったのには、あるオーディションでの出来事が影響していた。その出来事とは?
順風満帆に役者人生を歩んできた浅野だが、30歳の手前で大きな壁に当たる。自身の芝居に限界を感じたという浅野を救ったのが、山田洋次監督だった。2008年映画「母べえ」では、監督の演出から多くを学んだ。役に入り込み、浅野のせりふが聞き取りづらかった時、録音部に音の確認をした監督。そして、「もう一回」という録音部に「心のマイクで撮るんだ」と怒ったという。その時、浅野は自身の芝居が救われたと感じた。
2011年映画、「マイティー・ソー」で主人公を守る三銃士の一人を演じ、本格的にハリウッドデビューを果たす。“英語の壁”に悪戦苦闘しながらも、浅野は日本映画と海外映画の製作スタッフの情熱の差を感じていたという。その違いとは? そして、祖父の故郷・アメリカでデビューしたことへの思いとは?
8月26日公開の映画「幼な子われらに生まれ」では、バツイチで子連れの女性と再婚した父親役に挑戦している。良き父親を装いながらも、妻の連れ子とうまく接することができず、父親としての役割を担えない不器用な大人を演じた。公開直前の心境と意気込み、そして、日本映画の未来についても語る。さらに、映画作りを志す若者たちへの熱いメッセージも!