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#405

阿木燿子(作詞家)

ゲスト×インタビュアー
阿木燿子(作詞家)× 舘野晴彦(編集者)

1945年終戦の年に生まれ、横浜で育った阿木燿子。
町工場を経営する両親と、兄、妹がいる一般的な家庭だった。
作詞家になるための運命的な出会いは明治大学入学直後に待ち受けていた。
「軽音楽部に入らないか」と声をかけてきたのは、後に夫になる「宇崎竜童」だったのだ。
宇崎は、作る曲に対し、誰彼構わずに「詞を書いてくれ」と頼んでいた。もちろん阿木にもその依頼はきた。自分が書いた詞に、まるで即興のように曲をつけてくれる宇崎。
しかし、顔を合わすたびに「書けた?」と聞かれるようになり、
阿木は、宇崎に頼まれた作詞に対して、辟易してしまうようになる…

大学を卒業して3年後の1971年、26歳で宇崎と結婚。
しかし、結婚2年目にして突如、宇崎が「歌手デビューをする」と言い出したのだ。
「歌手はイケメンか歌が上手い人がなるものなのに…」阿木の反対をよそに、
1973年「ダウンタウンブギウギバンド」として宇崎はデビュー。

「アルバムを出すのに、曲が足りないから書いてくれ!」

久々に宇崎から頼まれて書いた曲が「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975)
作詞家・阿木燿子のデビュー作にして、大ヒットとなった。

阿木・宇崎のコンビを一躍世に知らしめたのが・・・山口百恵の「横須賀ストーリー」だ。実は、山口百恵が阿木と宇崎の作詞作曲のコンビを指名し、自らの曲を作ってくれと頼み込んだのがきっかけでこの曲は生まれた。
以降、山口百恵が引退するまでのおよそ5年間に、阿木と宇崎のコンビは78曲もの楽曲を提供。
そして、打倒ピンクレディを旗印に、レコーディングぎりぎりまで何度も歌詞の直しを要求され、苦心の末に出来上がった曲が「プレイバック part2」・・・
追い詰められた阿木の本音「馬鹿にしないでよ!」が歌詞にそのまま反映された。

1000曲以上の楽曲を作り、数多くのヒット曲を書いた作詞家・阿木燿子。
名曲がいかにして生まれたか?実体験を歌にしたのか?
時代を切る詞がいかにして生み出されてきたのかに迫る。
そして、阿木の活躍は作詞家だけにとどまらない!
1980年公開の映画「四季・奈津子」でスクリーンデビュー。
ヌードにも挑戦している。

妻の仕事を最大限に理解してくれる夫、宇崎との夫婦生活は今年で47年。
度々ベストカップルにも選ばれ、今回のインタビューでもその仲のよさが伺える。

「夫婦の間に喧嘩は?」
「男友達と飲みに行っても嫉妬しない宇崎が、唯一嫉妬する意外なこととは?」

2016年5月、この番組に出演した宇崎は…「家事を手伝う」と、大々的に宣言した。
あれから2年半、宇崎は家事を手伝うようになったのか?阿木がその実態を明かす。

2001年から舞台「Ay 曽根崎心中」をプロデュース。
音楽は宇崎が担当し、今年で17年目。
この作品は子供のいない夫婦にとって、我が子を育てるようなものだという。
毎年、構成要素を足したり引いたり、変化し続ける舞台の魅力を語る。

今回のインタビューの舞台は、
阿木がオーナーを務める東京・赤坂にあるライブビストロ「November Eleventh」。以前、宇崎のインタビューを収録した場所だ。
なつかしの名曲もたっぷりと交えた1時間!