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#426

中田久美(バレーボール女子日本代表監督)

ゲスト×インタビュアー
中田久美(バレーボール女子日本代表監督)× 宮嶋泰子(テレビ朝日スポーツコメンテーター)

1965年9月3日、東京都練馬区生まれ。小学生の時に水泳を習っていたが、練習がきつくて挫折。中学1年の時、母親がママさんバレーをやっていたことをきっかけにバレーボールを始めるが、練習にはあまり参加しなかったと当時を振り返る。転機となったのは何気なく見ていた雑誌にあった、モントリオール五輪で金メダルを獲得した山田重雄監督の「LAエンジェルス」第2期生募集記事。試験を受けた中田は、受験者700人から合格した7人の1人に選ばれた。試験は実戦ではなく体力測定だったので、ラッキーだったと当時を振り返る。
史上最年少の15歳で日本代表に選ばれ、1984年に初出場したロサンゼルス五輪では銅メダルを獲得。しかし金メダルを逃した悔しさから、表彰式でメダルをすぐに外してしまったという。
その後、ソウル五輪に向けて練習していた中田に悲劇が襲いかかる。ひざのじん帯を2本切る大怪我を負って再起不能と言われ、自身も「バレーボール人生の中で一番辛かった」と振り返る。入院当時、取材していたインタビュアー・宮嶋の言葉に励まされた、という知られざるエピソードも。10カ月間のリハビリ後、復帰を果たした中田は1988年、ソウル五輪に出場し、4位に。4年後のバロセロナ五輪では5位。そして、27歳で日本代表を引退する。
現役引退後はファッションモデル、スポーツキャスターに転身。2004年、キャスターとして活躍していた生放送のスタジオで、ある出来事が…。「あの事がきっかけで怖い人間だと思われている」という当時を告白。
2008年、バレーボール界に戻ることを決意。きっかけは、亡き父親が最後に残した言葉。中田を奮い立たせた言葉とは? 久光製薬スプリングスの監督に就任した中田はその後、V・プレミアリーグ、国体などの大会を制覇し前人未到の5冠を達成。その偉業から2017年、バレーボール女子日本代表監督に就任する。日本代表監督としてのプレッシャー、チーム強化への指導力、選手たちとのコミュニケーション術、そして来年開催される東京五輪への思いを語る。