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特別企画 吉田正・遠藤実

昭和時代、多くの名曲が誕生する中に、燦然と輝く二人の巨星がいた。死後、、国民栄誉賞を受賞することになる作曲家・吉田正(大正10年1月20日~平成10年6月10日)と、作曲家・遠藤実(昭和7年7月6日~平成20年12月6日)である。

吉田正は、20代のころ戦地で生死をさまよいなから過酷な体験とそしてシベリア抑留生活を送る。そんな過酷な日々の中、歌を作り仲間とともに歌い励ましあった。その一つが作曲家デビューとなった「異国の丘」(昭和23年、詞:増田幸次、佐伯孝夫補詞)だった。戦地から帰還した吉田は、これまでの歌謡曲には無い斬新な世界を模索した。そんな中から生まれたのが、「有楽町で逢いましょう」(昭和33年、フランク永井、詞:佐伯孝夫)だった。有楽町にオープンンした当時としては、珍しいデパートとのタイアップから生まれたこのキャンペーンソングは大ヒット、曲のタイトルは当時流行語にもなった。吉田は、フランク永井の歌で「夜霧の第二国道」などヒット曲を連発。
フランク永井は、当時ジャズシンガーとして活躍していたが、新しい歌謡曲を世界を目指していた吉田正の強い説得に応じたものだった。そして、そのフランク永井が発掘したのが、同じジャズシンガーで活躍していたの松尾和子だった。松尾が歌った「誰よりも君を愛す」(昭和34年、詞:川内康範)も大ヒットし第2回レコード大賞を受賞。一連の吉田メロディは「都会派ムード歌謡」と呼ばれ、後の歌謡界に大きな影響を与えることになる。また吉田正は、青春歌謡の分野を新たに切り開き、吉永小百合と橋幸夫の歌った「いつでも夢を」(昭和37年、詞:佐伯孝夫)は、第4回レコード大賞受賞。また、橋幸夫の「恋をするなら」などをヒットさせ、これまでの歌謡曲にないリズム歌謡の世界を切り開いた。時代を射止めた吉田歌謡とは、何なのか……?!

遠藤実は、新潟市郊外で少年時代を過ごした。その生活は言葉で言い現すことが出来ないくらい貧しいものだった。そんな遠藤は、着の身着のままで歌手を夢見て上京した。しかし貧しい生活は変わらなかった。
厳しい生活が続く中、なんとか酒場で流しをしながら歌手になる夢を持ち続けた。貧しい流しの歌手でなんとか生活をしのいでいる時に、ある女性と出会い結婚。苦しい生活が続く中歌手の夢を断念し作曲家になることを決意する。多くの苦難を乗り越えしつつも作曲家に。島倉千代子の「からたち日記」(昭和33年、詞:西沢爽)が初ヒットとなった。その後、遠藤が作曲した舟木一夫の歌った「高校三年生」(昭和38年、詞:丘灯至夫)も大ヒット。貧しさのため高校進学をあきらめざるをえなかった遠藤の思いがこもった作品だった。
以後、千昌夫が歌う「星影のワルツ」(昭和41年、詞:白鳥園枝) は、累計売上げ250万枚を超す大ヒットとなった。ほかに「北国の春」、渡哲也の「くちなしの花」(昭和48年詞:水木かおる)など多くの名曲を作り続けた。渡哲也は、「くちなしの花」のレッスンのとき、結婚指輪も買えなかった時代を思い浮かべながら泣いている遠藤の姿を見たという。
遠藤メロディは、人々の心に沁み透るだけでなく、心をいやしてくれる「何か」がある。その「何か?」とは……?!