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#443

生島ヒロシ(フリーアナウンサー)

ゲスト×インタビュアー
生島ヒロシ(フリーアナウンサー)×舘野晴彦(編集者)

1950年、宮城県気仙沼市生まれ。小学校中学校と野球に打ち込んだ生島だったが、高校の時に、その後の人生を左右する「空手」と出会う。
卒業後は法政大学に進学し、空手同好会に所属。
大学闘争が盛んだった時代、生島は学生運動に参加したが、のめりこめずに挫折。
自分に嫌気がさし落ち込んでいた時、空手同好会の顧問が救いの手を差し伸べてくれた。
「アメリカで空手を教えてみないか?」
ちょうどその頃、アメリカで空手が広まりつつあり、大学3年生の時、休学し単身渡米。
英語は片言、住む場所さえ決めていない無謀な計画だったが、渡米から1年もせず、ケイン・コスギの父、ショー・コズギと一緒に行っていた「空手ショー」が評判に。
その㊙エピソードも!
滞在中にカリフォルニア州立大学でジャーナリズムを専攻。
授業の一環でラジオのディスクジョッキーを務めていたことをきっかけに、日本語放送のラジオ局でDJを任され、一躍人気者になった。

卒業後は日本に戻り、アナウンサーとしてTBSに入社。
ラジオ番組のレギュラーから火がつき、気がつけば局の看板アナウンサーとなっていた。
そして、入社から14年で独立。自身の芸能事務所「生島企画室」を立ち上げる。
だがほどなくしてバブルが崩壊。不動産投資に失敗し10億円の借金を作ってしまった。
テレビのレギュラーも徐々に減っていき、絶頂期から転げ落ちる、まさにどん底生活の始まりだった。

借金を返済するために、生島は得意のしゃべりを生かして「講演」の仕事を始める。
さらに、これからの時代に役立ちそうな様々な資格を取得し、講演のオファーを増やしていった。

苦楽を共にしてきた「妻」
テレビではあまり語らない“馴れ初め”を公開!「俳優」となった息子たちへの思いとは…。
2011年3月11日、東日本大震災は生島の故郷、気仙沼を襲い、最愛の妹と義弟を亡くしてしまった。
残された姪と甥、二人の人生を背負おうとする生島の胸中は…。

苦しみや悲しみに幾度となく直面しながら、その都度這い上がってきた生島の言葉は、きっと生きるヒントになるはずだ。