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#166

京の絵師・若冲はなぜ描いたのか

京都が生んだ江戸時代の天才絵師・伊藤若冲。2021年、若冲の傑作「動植綵絵」が国宝に指定。変幻自在の作風で今も多くの人を魅了する若冲ですが、その作品の中には「誰かのために」描かれたものがあると言います。若冲は、なぜ描き続けたのか?俳優・宇梶剛士さんが、ゆかりの場所を訪ね、作品に込められた若冲の想いに迫ります。
まずは若冲が身近な人のために描いた作品を紐解くために、伊藤家の菩提寺「宝蔵寺」へ。父や母、弟たちの墓はあるものの、ここに若冲の墓はありません。それは稼業を弟に託し絵師としての道を歩むことを選択した若冲の強い覚悟の証なのです。10代半ばから筆を取り、絵を描いた若冲は、40代になると「動植綵絵」を描きます。10年の歳月を費やした、30幅からなるこの作品は、相国寺に寄進するために描かれたものですが、実は若冲が23歳の時に亡くなった父親への想いが込められていると言います。その根拠とは? また若冲が母のために描いた異色の作品「果疏涅槃図」についても解説します。さらに、若冲が師と仰いだ高僧との合作や、若冲から絵の手ほどきを受けていた弟の作品も間近で拝見します。
若冲は家族だけではなく、京の人たちのためにも作品を手がけていました。「壬生寺」に残されていたのは、若冲の名前が刻まれたお面。民俗芸能の「壬生狂言」で使われる面です。なぜ若冲はこのお面を寄進したのか。そこには若冲と壬生との深い繋がりがありました。
京都中を焼き尽くした「天明の大火」により、若冲は晩年、禅寺「石峰寺」に身を寄せます。若冲はこの門前に居を構え亡くなるまで作品を作り続けます。そして作られたのが、境内に置かれた約530体からなる石仏群。若冲は、ありとあらゆる人たちを救う理想郷を作ろうと考えていたと言うのです。その設計図ともいえる絵を観ながら解説します。
家族や都人への愛を作品に込めてきた天才絵師・伊藤若冲の知られざる想いに触れる旅へ。


【専門家出演者】
●京都国立博物館 美術室研究員
福士 雄也さん