番組表

広告

読むバトンタッチ SDGsなマレ人たち

600羽の鳥を救った男。
「飼い鳥」のレスキューに人生を懸けた起業家の波乱万丈
認定NPO TSUBASA 代表 松本壯志さん

鳥と一緒に歌う「鳥爺」

オウム、文鳥、インコ……埼玉県新座市にあるなんの変哲もない木造の建物の2階に、100羽を超える鳥が住む。すべての鳥に名前があり、専属のスタッフが手厚くケアしている。
 
「TSUBASA とり村」と名付けられた施設にいるのは、なんらかの理由で飼い主が手放さざるをえなかった鳥たち。認定NPO法人TSUBASAは、行き場を失った「飼い鳥」を受け入れ、里親希望者とのマッチングを手掛けている。

鳥を愛する人の聖地 認定NPO法人 TSUBASAのとり村
 

飼い主と別れた約120羽の鳥を、5名の専門スタッフとボランティアでお世話している
 

移設内には、鳥が自由に飛べる、ドッグランならぬバードランも
 

鳥たちがいるスペースに足を踏み入れると、盛大な鳴き声で迎えられた。南国にいそうな色鮮やかで大きな鳥から、手のひらサイズの小鳥まで、さまざまな鳥が飼われている。アオメキバタンのシロちゃんと一緒に「ポッポッポー、ハトポッポー~」と歌を披露してくれたのは、NPOの創設者で、「鳥爺(とりじい)」こと松本壯志さん。20年以上前から鳥のレスキューに走り回り、愛鳥家の間では知らぬ人のいない存在だ。
 
松本さんは2019年まで、自身で創業したロムテックという各種半導体デバイスの書き込みサービスを行う会社の社長を務めていた。鳥を愛する起業家は、これまでかなりの額の私財をこの活動に投じてきたという。しかし、決して道楽ではない。命の危機から生還した時、「これからの人生を世の中のために役立てよう。自分には鳥しかない」と腹をくくって、鳥のレスキューを始めた。
なぜ、そこまで? 鳥とともに暮らし、鳥のために生きる68歳の人生を振り返ろう。

 

いじめから救ってくれたニワトリ

両親が炭鉱で働いていた松本さんは1955年、福岡の筑豊で生まれた。自宅には犬やウサギ、チャボがいて、幼い頃から動物が好きだった。松本さんが初めて鳥を飼ったのは、6歳の時。夏祭りの縁日で売られていたヒヨコを一羽、父親に買ってもらった。白色レグホンという種類のニワトリで、育ててみると60センチほどの大きさになった。
 
「ひよこの時から飼っているので、僕によくなついていました。友達のような感覚でしたね。当時、僕はいじめられていたんですけど、いじめっ子が来ると追っかけ回すんですよ。それからいじめられなくなったんです。ありがたかったですね」

屋台で買った白色レグホンのヒヨコは立派に育ち、いじめっ子から守ってくれた
 

この鶏との友情は、数カ月で終わった。正月の朝の食事時、姿が見当たらないので「どこに行った?」と親に尋ねたら、「ここにいるよ」。知らない間に絞められて、調理されていたのだ。あまりの出来事に、松本少年は泣きじゃくった。そこで、父親に「ありがたく食べなさい」と言われ、涙をこぼしながら箸をつけた。当時の松本家で肉と言えばクジラで、鶏肉を口にするのはお祝いごとがあった時ぐらいだったから、おいしさを噛みしめて、残さず食べきった。

 
大事に育てたニワトリはある日松本家の食卓に登場した(真ん中が鳥爺)
 

小学校5年生になると、お小遣いの700円でペアのハトを飼った。そのハトが生んだヒナが松本さんのパートナーのようになり、外に放しても、一声かければ松本さんのところに戻ってくるようになった。それが嬉しくて、中学に入ると新聞配達のアルバイトを始め、稼いだお金でハトを買って、繁殖するようになった。ほかにもセキセイインコや文鳥の飼育も始めた。
 
その熱が急速に冷めたのは、かわいがっていた手乗りのハトがイタチに食べられるという事件が起きたから。それが高校進学のタイミングと重なり、サッカー部に入った松本さんは、ボールを追いかけることに夢中になった。

 

人生を変えたオーディション合格

福岡電波高校(現在の福岡工業大学附属城東高等学校)に進んだふたりの兄に倣い、松本さんは別の高校の電子科で学んだ。高校3年生の時、「東京で自分の力を試してみたい」と奮い立ち、日本電子専門学校に進学した。
 
ところが、1年で中退する。新聞配達をして奨学金をもらいながら学校に通っていたのだが、早朝に朝刊を配達する影響で授業中に眠くなって成績が落ちたことに加え、「論理的に考えるのは苦手。向いていない」と感じたそうだ。
 
東京でフリーターになる道を選び、アルバイト情報誌で見つけた仕事が、移動動物園のスタッフ。採用されてからいきなり山口県、広島県、その後、福島県にも派遣され、3カ月かけて現地の幼稚園を巡った。
それがハードだったこともあり、「やっぱり学校に戻ろうか……」と思っていたら、会社から命じられて受けたテレビの子ども番組のオーディションに合格。「全国放送だから、親も喜ぶだろう」とこの仕事を引き受けた松本さんは、1976年3月末にスタートした新番組『ワンツージャンプ!』で、毎週月曜日、「動物のお兄さん」として動物を連れて出演することになった。

「動物のお兄さん」としてテレビに出演する一方、子ども向けの動物園の飼育員としても活躍
 

これで毎週テレビ局に通うことになったため、地方出張がなくなり、月曜以外は都内にあった子ども向けの動物園で飼育員として働くことになった。ここはヤギやヒツジ、アヒルなどが放し飼いされていたため、お客さんがケガをしないように気を付けるのも、飼育員の大きな役割だ。
ある時、園内の動物がある程度成長すると、別のところへ連れていかれることに気づいた。しばらくして、大きな動物は危ないという理由で殺処分されていると知り、愕然としたという。それだけが理由ではないだろうが、松本さんが働き始めた時にいた園長、獣医、スタッフが次々と退職し、園長に就任することになった。
 
ところが、間もなく動物園の閉鎖が決定。会社から、すべての動物を処分するよう通告されたことで、松本さんは思いがけない行動に出る。動物園には、松本さんがかわいがっていたミミという名のサルもいた。居ても立っても居られなくなった松本さんは、ミミを連れ出した。
21歳の冬の出来事だった。

 

仕事、そして愛鳥との別れ

ミミを逃がしたことがバレて、会社をクビになった。それでも動物に関わる仕事を続けたいと思い、求人広告に出ていた某動物プロダクションに応募したところ、飼育係の経験者ということですぐに採用された。これは「動物のお兄さん」と同じく、テレビ番組に動物を連れていき、出演のサポートをする仕事だった。華やかな芸能の世界に触れ、仕事を楽しんだが、そのうちに、疑問を抱くようになった。
 
「朝早くから現場に連れて行って、出番が深夜ということがよくありました。その間、動物はずっと小さな檻のなかにいなきゃいけません。そのうえ、会社に戻ってきてもそんなに広いとこで飼われていないので、かわいそうだなとモヤモヤするようになりました」
ある日、社長もいる酒の席で、溜まりに溜まっていたそのモヤモヤが爆発。それが原因で、クビ同然で会社を離れることになった。松本さんが今も後悔しているのは、個人的に飼っていたコンゴウインコを会社に置いてきてしまったことだ。

 
動物園のコンゴウインコと。上京してから鳥への愛が再燃、家でも鳥を飼うようになっていた
 

「番組で使うこともあって会社に預けていたんです。でもその時、会社とけんか別れのようになってしまったから、どうしても引き取りに行けなかったんですよね……。僕にしかなついていなかったから、本当にかわいそうなことをしてしまいました」

 

3度目のクビ

再び無職になった22歳の松本さんは、たまたま「鷹」という喫茶店の求人広告を見て愛鳥家の血が騒ぎ、応募。オーナーのママは働く気がなく、もうひとりのスタッフは障害を抱えていたため即採用され、いきなりマスターに就いた。
 
面接の際、料理はできるの? とママに聞かれ、動物のエサを切ったことがあるから大丈夫だろうと、「はい」と答えて始まったマスター生活。根がまじめな松本さんは料理やコーヒーの淹れ方をイチからおぼえ、徐々にお客さんが入るようになった。それで気を良くしたママが、「夜は飲み屋にする」と宣言。店の名前を「鷹」から「アプリコット」に変えたあたりから、風向きが変わる。
 
きっかけは、お酒を出す夜の時間、「お客さんにお酌をするように」とママがアルバイトの女の子たちに求めたこと。喫茶店で働いているつもりの女の子たちはそれを嫌がり、苦情を受けたマスターは、「クラブやスナックじゃないんだから、やめてほしい。こういうことを続けるなら、自分は辞める」と話した。ママがそれを無視したため、ケンカになってまたクビになった。
 
この時、23歳になっていた松本さんは、だいたい1年に一度、クビになってきた。いかにも穏やかそうな現在の姿からは想像がつかず、「若い頃は血気盛んだったんですね?」と尋ねると、「うん、そうかもしれないですね。本当はおとなしいんですけど」とほほ笑んだ。
その時、目の奥がギラリと光ったように見えたのは、気のせいだろうか? 実は、この後も松本さんは想像を超える人生を歩んでゆく。

 

会社員から起業家へ

それまでの3年間を省みて、「とりあえず、一回、サラリーマンになってみるか」と考えた松本さんは、電子関係の企業の採用試験を受けた。そして1978年、日立の子会社、日立マイクロコンピュータエンジニアリングで働き始めた。
 
与えられたのは、カセットテープにコンピューター用のプログラムを録音する仕事。当時、世に出始めたばかりのコンピューターに、そのカセットテープを読み込ませることで、プログラムを起動させていたのだ。最初はひとりで黙々とやっていたその作業も、ニーズが爆発的に高まったことでパートさんを増やして対応した。カセットテープは途中でロムと呼ばれる半導体に代わったが、やることは変わらない。
 
「あの頃、大流行していたインベーダーゲームのプログラムをROM(ロム)にひとつひとつ書き込んでいたのが、僕なんですよ。今でも記録を破られていないと思いますけど、まだ週休1日制の時に230時間残業しましたから。もう、会社に住んでるようなもんですよ」
 
入社から数年後、長野県松本市に支所を開くことになり、松本さんはそこで大勢のパートさんと一緒に、ひたすらプログラムの書き込みをした。

 
松本への転勤時代 愛犬と
 

コンピューターが世に広まる速度に合わせて、仕事量は増える一方。結婚したばかりの妻が「残業未亡人」と言われるような状況だったこともあり、1985年、退社を決意した。独立して、松本市のタウン誌を創刊しようと考えていたところ、社長から「辞めてもいいから、あと半年だけ仕事を続けてほしい」と頼まれた。そこで、ロムテックという会社を立ち上げ、仕事を引き受けたところ、新たな気付きを得た。
「会社員の時と違って、頑張れば頑張っただけのものがちゃんとリターンとして返ってくるじゃないですか。自分がやったことが評価としてストレートに返ってくる世界なんだなと思ったら、経営者としての面白みが出てきました」
 
ROMにプログラムを書き込む作業は、正確性とスピードを要求される。コンピューターの創成期からその仕事を極めてきた松本さん率いるロムテックはその後、雑誌『日経エレクトロニクス』に取り上げられたこともあり、依頼が殺到。クライアントが多い東京に本社を移し、事業を拡大した。実は自動化が難しい領域で、今も60名の社員と大勢のスタッフが同じ仕事を続けている。

 

DJまっちゃん、1億円の借金を完済する

創業から3年が経った頃、長野県飯田市でディスコを開いていた義理の親族から、経営難に陥ったディスコの再建を託された。そこで松本さんはまず、100坪のハコから25坪のハコに移転。営業日を、金曜と土曜だけに絞った。
 
「私はディスコに行ったこともなかったんですよ。それでディスコの研究をしたら、お客さんが少ないところは、そういう噂が流れてどんどんお客さんが減るとわかりました。だから、狭いハコでお客さんを金、土に集中させれば、お客さんがいっぱいいるように見えるという戦略でした」
松本さんは月曜から金曜の17時までロムテックの仕事をして、その後、飯田市まで車を走らせて、2日間、ディスコに顔を出した。そこで女性客の声に耳を傾け、こんな曲をかけてほしい、こんなイベントをしてほしい、こんな料理を出してほしいという意見を次々に反映。すると一気にお客さんが増え、人気店になった。
 
この頃、「ひとりで4時間も回すのは大変」というDJの話を聞いて、「じゃあ、おれもやるよ」と立候補。そのDJからイロハを学び、「DJまっちゃん」としてデビューする。ディスコを引き継いでから9年後、「DJまっちゃん」は総額1億円あった借金を完済した。

DJまっちゃん時代 キメの一曲は B’zの「BAD COMMUNICATION (英語版)」だった
 

松本さんがユニークなのは、師匠のDJとディスコの中心スタッフが動物好きと知って、一緒に事業を始めるところだ。
 
「移動動物園や動物プロダクションでの経験から、動物業界を変えたいという思いがあって、動物業界にもう一度戻ってみたいなって思っていたんです。それで、飯田には土地が余っているから、ここで繁殖やってみようかって話になって」

 

「この子を僕にください!」

1994年、ペットショップと繁殖場を運営する許可を得ると、その2年後、41歳の時、東京・池袋にペットショップ「CAP!」を開いた。ここもディスコのように繁盛店に……はならない。
ペットの代表格である犬と猫を販売する際、松本さんは子犬、子猫の健康のために生後100日間の間に二度、ワクチンを打ってから譲渡しようと考えていた。しかし、当時は生まれて間もない子犬、子猫を販売する業者がほとんど。松本さんは健康な犬や猫を販売することが差別化につながると考えていたのだが、生後100日を経て、ある程度大きくなった犬や猫はまったく売れなかった。お店は閑古鳥が鳴き、開店からわずか9カ月後、大家に「あと半年で店を閉めます」と告げた。
 
がらんとしたペットショップ。東京に出てきてから、ペットではなく人生を共に歩む「コンパニオンアニマル」としてずっと鳥を飼い続けていた松本さんは、「ここで半年間、鳥たちと生活しよう」と思い立ち、飼っていた鳥を10羽、連れてきた。

ペットショップ「CAP!」でくつろぐ松本さんの愛鳥たち
 

「鳥はしっかり自己主張するし、意思表示もはっきりしていて飼い主と対等なんです。犬や猫もかわいいけど、僕は鳥のそういうところが好きなんですよね」
 
鳥たちをかごから出し、ガラス張りのペットショップのなかで放し飼いを始めると、道行く人の注目を集めるようになった。インターネットが普及し始めた頃で、「変わったお店がある」とネット上で話題になり、週末になるとお店に入り切れないほどのお客さんが訪ねてくるようになった。松本さんが愛鳥家のお客さんたちと話をして気づいたのは、鳥に関する知識を得ることに意欲的で、アドバイスをすると素直に聞き入れて、実行してくれること。その姿勢に希望を感じたと、振り返る。
 
「動物業界を変えたいと思ってペットショップを始めましたが、動物業界という大きなカテゴリーだと自分には力不足だと自覚しました。でも、飼育される鳥の市場は小さいし、お客さんは熱心な人が多い。鳥の業界なら変えられるかもしれないと思ったんです」
潰れかけていた「CAP!」は、ここから鳥の専門店として歩み始めることになった。
ペットショップにいる動物は、業者自身が繁殖させるほかに、業者が集うペットオークションで仕入れることもできる。1998年のある日、ペットオークションの会場に人だかりができていた。近づいてみると、汚いゲージに羽が抜けたオウムが入っている。周りの人の話に耳を傾けると、何軒ものペットショップでたらい回しになってきたことがわかった。ひとりが「もう最後かもしれない」と言うのを聞いて、「どういうことですか?」と尋ねたら、「ここで決まらなかったら、殺処分になるかもね」。
 
その後、ベルトコンベヤーに載せられたそのオウムには誰も買い取りの意志を示さず、気になってもう一度、オウムのところに行った。松本さんはそのオウムからの視線を感じ、思わず「うちに来るか?」と話しかけた。すると、オウムが「うん」と頷いたように見えた。
 
その瞬間、松本さんは「この子を僕にください!」と問屋に告げていた。代金は無料、支払ったのはケージ代だけだった。

レスキューしたオウム、トキちゃんと命名 今でもTUBASAで元気に暮らしている

 

最初のレスキュー

一般的なペットショップでは、羽が抜けるなどした鳥は見栄えが悪いのでバックヤードに移す。しかし松本さんは、トキちゃんと名付けたこのオウムを、ほかの鳥と同じように表に出した。そして、お客さんから「どうして?」と聞かれたら、包み隠さず事情を話した。
 
この時すでに、愛鳥家の間で「CAP!」は名を知られた存在だったから、次第に「CAP!」のお客さんやインターネットを通して、「あのペットショップにも、傷ついたまま放置されている鳥がいる」と通報が届くようになった。
 
そうなると、松本さんも放っておけない。最初にレスキューしたのは、横浜のペットショップにいたヨウム(大型のインコで、オウムとは異なる)。非常に賢いことで知られるヨウムは、狭いゲージのなかで皮膚や肉をかじる自咬症になっていた。
 
松本さんは一般客を装い、「自咬症になっていますよ」と店員に話しかけると、「マキロンで消毒しているから大丈夫です」と返された。それを聞いて「この状態で病院にも連れて行っていないのか!」と憤り、知り合いの問屋に連絡をすると、その店とも付き合いがあるという。
 
そこで、問屋から店に「毛引きを研究している人がいて、毛引きしている鳥がほしいと言っているんだけど、どうか?」と電話をかけてもらった。ペットショップとしては手間のかかる鳥を手放せるのは渡りに船で、無料でどうぞと話がまとまった。
 
「お金を払ったら、その店を儲けさせることになりますよね。そうしたら、また同じようなことが起こりかねない。それは避けなきゃいけないと思って、知恵を絞りました」

 

▼アメリカで受けたカルチャーショック

鳥のレスキュー活動が知られるようになると、「CAP!」はますます有名になり、全国から支店を出してほしいとリクエストが来た。しかし、松本さんは躊躇した。
 
というのも、日本の鳥の繁殖場はブラックボックスで、ペット業者に公開している数少ない繫殖場は、目をそむけたくなるような不衛生な環境だった。そこでは、問屋に卸される前に多くのひなが死ぬと聞いた。
 
一方、アメリカの繫殖家は積極的に情報を公開しており、常に視察を受け入れている。年に数回、アメリカに行って繁殖環境を確かめた松本さんは、アメリカから輸入するようになっていた。
 
ペットショップを増やすとなれば、アメリカからの仕入れを増やすことになる。でも、日本の繫殖場から目をそらしていいのだろうか?
2000年2月、その答えを探しにアメリカのラスベガスへ飛んだ。アメリカで最大級のバードレスキュー団体として知られるガブリエル財団が4日間にわたるシンポジウムを開催していたのだ。そこでガブリエル財団を主宰するジュリーさんに声をかけたのが縁となり、コロラド州デンバーにある施設まで足を伸ばした。その時、広々とした土地でたくさんの鳥が保護されているのを目にした松本さんは、カルチャーショックを受けた。
 
それからの行動は、早かった。翌月にはレスキュー団体「TSUBASA」を設立。同年12月31日には、「CAP!」で鳥の生体販売を中止した。
さらにアメリカ視察の約1年後、保護した鳥を快適な環境で飼育するため、自分と妻、「CAP!」の店長になっていたDJが資金を出し合い、千葉県の富津市に土地を購入。「CAP!」を移転させ、保護した鳥用の施設も整備した。

 
鳥のレスキュー施設TUBASA 建造前のイメージイラスト
 

「CAP!」はエサやグッズの販売に絞り、レスキュー活動に本腰を入れよう。ガブリエル財団のジュリーさんに感化された松本さんは、そう誓った。

 

▼余命1年の宣告

この時、まだ松本さんがロムテックの社長だったことを考えると、どうやってこれだけの活動を両立していたのかと不思議に思うだろう。実はロムテックを創業した翌年、30歳の時にB型肝炎を患い、医者から「すごく活発的なB型肝炎なので、この調子でいくと50歳ぐらいから肝硬炎になって、60歳ぐらいで肝臓がんになることを覚悟しておいてください」と告げられた。その時、「それなら、太く短く生きよう」と覚悟を決めたのだ。
 
しかし、無理を重ねたせいで想像以上に早く身体の調子が悪くなり、2003年に入ると入退院を繰り返すようになっていた。「CAP!」は生体販売をやめたことで赤字に転落し、保護施設には200羽を超える鳥がいる。「このまま自分が死んでしまったら、みんなに迷惑をかけてしまう」と松本さんは苦悩した。
 
同年11月には、病院で「余命1年」と宣告を受ける。助かるためには兄から生体肝移植を受けるしかないのだが、事情があり、診察を受けていた東京大学では手術ができないと言われていた。八方ふさがりのなか、一筋の光明が差したのは翌年7月。主治医が京都大学の専門医に紹介状を書いてくれたことで、手術が決定。無事に兄の肝臓が移植され、タイムリミットまで残り3カ月というところで、命を長らえた。
松本さんは、病院のベッドで天井を眺めながら、それまでの人生を振り返った。そして、新たな一歩を踏み出すことを誓った。
「兄貴の肝臓にもらった命を、役立てなきゃいけない。ロムテックは、もう自分がいなくても大丈夫だ。自分には、鳥しかない。現場に復帰したら、鳥の里親事業を始めよう」

 

▼偶然か、必然か

九死に一生を得た手術から、19年。松本さんは当時の決意の通り、鳥のレスキューと救った鳥の里親事業に力を注いできた。また、「バードライフアドバイザー」という資格を作り、鳥についての学びを深めるセミナーやイベントを全国で開催。2011年2月、現在の場所に施設を移転した認定NPO法人TSUBASAは、現在5名の専門スタッフ(10名の正社員)を抱えるまでに成長している。
 

2021年強制退去になった家から保護した文鳥103羽はほとんどが新たな飼い主の元へ旅立った
 

これまで、どれぐらいの鳥がここから里親のもとに旅立っていったのですか? と尋ねると、松本さんは嬉しそうに目を細めた。
「600羽ぐらいですかね。もちろん、レスキューした数は600羽を越えますよ。自分が子どもの頃に出会って、いじめっ子から救ってくれたひよこから今につながっているのかなと思うと、不思議な感じがします。あの時は偶然だったと思うけど、実は必然だったのかな」

鳥爺こと松本さんは妻の則子さん、そしてTSUBASAから引き取った4羽の鳥と今日も幸せに暮らしている
 

「バトンタッチ SDGsはじめてます」 松本壯志さんの回は10月28日18時半〜より放送
放送終了後、期間限定で無料配信もしております。

 


 

著者プロフィール

 

川内イオ

 

稀人ハンター 1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。全国に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」を目指す。この目標を実現するために、2023年3月より、「稀人ハンタースクール」開校。全国に散らばる一期生とともに、稀人の発掘を加速させる。近著に『稀食満面 そこにしかない「食の可能性」を巡る旅』(主婦の友社)。