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#107

村田英雄/淡谷のり子

日本の男を歌い上げた歌手 ~村田英雄~
「王将」、「人生劇場」など男の生きざまを力強く歌い上げ、一世を風靡した歌手、村田英雄。任侠映画では主題歌のほか、俳優として鶴田浩二や勝新太郎といった名優たちともわたりあった。そんな村田の時代には「哀愁列車」の三橋美智也、「お富さん」の春日八郎、そして「東京五輪音頭」の三波春夫といった戦後日本歌謡を飾った歌手たちがしのぎを削っていたのだ。村田英雄と同じ浪曲出身の三波春夫は、ライバルといわれていた。三波春夫が高度成長まっただ中「チャンチキおけさ」,「東京五輪音頭」などの曲で歌謡界で人気を博いてゆく中、村田英雄は,「人生劇場」,「無法松の一生」などの曲で懸命に働く人たちを力強く応援し、時には厳しく激励したのだ。
「ぼくは大衆に受け入れられた自分のリズムを守り、体に染みついた浪曲の波があったから幅広い演歌になった」そう話す村田英雄は5歳で浪曲を始め、13歳より浪曲師 酒井雲坊を名乗り全国を巡業した類まれなる人生遍歴があった。浪曲師として活躍中に歌謡界の重鎮、古賀政男に認められ、昭和33年「無法松の一生」で歌手デビューをはたす。それ以降、歌謡浪曲ともいえる「人生劇場」「王将」の大ヒットを放ち、演歌歌手としての揺るぎない地位を固めてゆくのだ。そんな村田は、後年日本の演歌の低迷を憂い、自身を演歌の中で燃焼されるべく執念を貫いた。「演歌がもう一度、脚光を浴びるまで、オレはやめん」そう力強く豪語していた村田は病魔とも闘かった。
日本の「男」の姿を歌で体現した村田英雄の人生とは何だったのか。彼の代表曲はもちろん、その時代の日本歌謡の変遷を合わせてひも解いてゆく。
学ぶべき世界がきっと見つかるだろう。
 
 
歌に生き、恋に生きたブルースの女王、歌手・淡谷のり子。
津軽弁で「からきじ」と呼ばれる強情っぱり…青森有数の大店に生まれた淡谷のり子は、やりたいことがあると絶対に意思を曲げない「からきじ」だった。生家の没落の後、母と妹ときのみきままで上京。東京で「歌」という生きがいを見つ けたものの、その前には想像を絶する困難が次々に降りかかる。そこで、のり子は「からきじ」魂を発揮し、文字通り体を張って現実を打破していく。また、歌うことへの熱い情熱、プロ意識は、同じ時代に生きた歌手・藤山一郎、そして笠置シヅ子らとはまた異なるものだった。
 
●古賀メロディーから「ブルースの女王」へ
のり子の初ヒット曲は、古賀政男が作曲した「私此頃憂鬱よ」。その後、タンゴ、シャンソンと洋楽志向を強めたのり子は、新進作曲家・服部良一と組んだ「別れのブルース」の大ヒットにより、ブルースの女王と呼ばれて、昭和モダンを体現した存在となる。その栄光と影とは。(「私此頃憂鬱よ」「別れのブルース」「雨のブルース」ほか)
 
●極貧生活、失意そして信念
流行歌手になる以前、のり子は貧乏のどん底にいた。妹に失明の危機が迫り、音楽学校を休学してヌードモデルにも。芸術に身を捧げた青年との出会いと悲劇の結末。さらに、恩師との切ない別れ。(ブラームス「永遠の愛」、ヴェルディ「椿姫」ほか)
 
●モンペを履かない歌手
常に自身の信念のもと、大衆に向けて歌い続けたのり子。戦時中、日本国民はぜいたく、歌手はドレスを着ること、洋楽を歌うことなどは固く禁止されていた。そんな中、洋楽とドレスを「これが私の戦闘服だ」、「国のトップがそんなこまごましたことを言っていて戦争に勝てるか?!」と、決してモンペを履こうとしなかった。「からきじ」魂は死なず。(「夜のプラットホーム」「ラ・クムパルシータ」ほか)
 
●歌とともに死んでいく
米軍キャンプ回りを経て戦後の歌謡界に復帰。戦後の歌謡界においては、ブギの女王・笠置シズ子、美空ひばりのよき相談相手にもなたっとか。彼女は晩年まで地道なライブ活動を続け、歌手としての誇りを示した。(「君忘れじのブルース」「夜のタンゴ」ほか)
 
「あなたは歌とともに死んでいくのね」。恩師の言葉を胸に、常に全力で歌と生きた淡谷のり子。その波乱の生涯を、同じく戦中・戦後に生きた音楽人たちの姿とともに探っていく。