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#77

春日八郎

歌謡界の巨人・春日八郎。デビュー曲「赤いランプの終列車」は昭和27年の大ヒット曲。その後の「お富さん」も大ヒットとなり、「お富さん」は子供までもが口ずさむ社会現象となった。また、“望郷歌謡”のさきがけとなった「別れの一本杉」、そして“御当地ソング”の走りともいえる「長崎の女」をはじめ、さまざまな分野でヒット曲を連発。歌謡界をリードし続けた“歌謡界の巨人”と称された。
しかし、春日八郎の歌手への道のりは、平坦なものではなかった。福島県の貧しい農家に生まれ、父の希望で東京の工業学校に入学。16歳の時、浅草で偶然観た「藤山一郎ショー」に感動、歌手になる夢を抱き東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に再入学。戦後、昭和23年に行われたキングレコードのコンクールに合格して準専属歌手となるが、給料は出ず、先輩歌手の前座や新宿の飲食店で月2~3回ステージに立つ程度で、生活は苦難に満ちたものだった。そんな中、同じレコード会社の準専属歌手で、後の奥さんになる恵子さんと多摩川近くの四畳半の家で同棲を始めたが、生活は苦しく、春日は歌手への夢をあきらめようと思ったという。その頃、春日に手渡された譜面が「赤いランプの終列車」だった。春日八郎は28歳でようやくレコードデビューを果たせることができたのである。その後、「お富さん」の大ヒットで国民的歌手へと上り詰めた春日だったが、そのビッグヒットが逆に春日を不安の日々へと追いつめていくことになる。しかし、春日は1人の無名の作曲家と出会い、彼の歌で救われることに。後に文化勲章を授章する作曲家・船村徹の「別れの一本杉」だった。船村は以後、「兄弟船」「矢切の渡し」「東京だョおっ母さん」「みだれ髪」などを作曲する。
昭和63年、親交の深かった三橋美智也、村田英雄と「三人の会」を結成。最盛期を過ぎていた演歌を活性化しようと3人でチャリティー・コンサートを開くなど活動したが、この頃から体調が思わしくない兆候が見え始めていた。春日の代表曲をはじめ、村田英雄「王将」「人生劇場」、三橋美智也「哀愁列車」「古城」など、春日と同時代を生きライバルでもあった3人のヒット曲も織り交ぜながら、歌をこよなく愛し“歌謡界の巨人”と称された春日八郎の波乱に満ちた人生に迫る。