BS朝日

バックナンバー

#79

大衆の心に寄り添い続けた作曲家・船村 徹

作曲家 船村徹は、村田英雄の「王将」では堂々たる男の生き様を、ちあきなおみや細川たかしなどの競作で知られる「矢切の渡し」では男と女の情愛を、そして美空ひばりの「みだれ髪」では切ない女の心情を、その旋律で見事に描ききった。
ほかに島倉千代子の「東京たよおっ母さん」、北島三郎の「なみだ船」,鳥羽一郎の「兄弟船」など5,000を超える多彩な曲を様々な歌手に提供し、戦後歌謡界に巨大な足跡を残した船村がこだわった歌作りの原点は、「大衆の心に寄り添う」ことだった。
そこには、敗戦後まもなく入学した東京の音楽学校での作詞家・高野公男との運命的な出会いがあった。茨城出身の高野は、栃木出身の船村に「働く人々の慰めになる音楽を作るべきだ」と熱く語り、「俺が茨城弁で詞を書くから、おまえは栃木弁で曲をつけろ」と激励した。共に地方出身者、都会でどん底の暮らしを強いられた二人は、洗練された詞や曲ではなく大衆の心に寄り添う歌を目指したのである。その代表作こそが高野が作詞を、船村が作曲し、春日八郎が歌った「別れの一本杉」。この歌は、当時地方から集団就職などで都会に出てきた若者や多くの人々の心をとらえ大ヒット、「望郷歌謡」の先駆けとなった。しかし同志、高野公男は肺結核で亡くなってしまう。高野26歳、船村は24歳だった。船村は高野との約束を守り、大衆の心に響く歌を作り続けたのである。高野が亡くなった翌年、船村は一人の男と出会うことになる。後に、二人で多くのヒット曲を作り続けることになる作詞家・星野哲郎である。星野との運命の出会いとはどのようなものだったのか?また船村が、五十曲以上作曲した美空ひばりとの歌作りを、「たたかい」と称した理由は何だったのか?大衆の心に寄り添う歌作りを目指した作曲家・船村徹。
その生涯を、代表的な船村の作品と時代背景を探りながらひもとく2時間スペシャル。