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#71

東日本大震災から8年 ドキュメンタリー映画『盆唄』が描く希望と奮闘

東日本大震災から8年、2019年3月10日のBS朝日『日曜スクープ』は、福島県双葉町の人たちの奮闘を描いたドキュメンタリー映画『盆唄』をご紹介しました。原発事故で町民全員の避難を余儀なくされ、先祖代々、守り続けていた伝統の危機に心を痛め、希望をもって立ち向かう姿を取り上げています。

■福島県双葉町“全町避難”が続く中で

ひとつの町の姿を描いた映画が公開され、話題になっています。その町は、福島県の浜通り地方にある、双葉町(ふたばまち)。今なお、帰還困難地域に指定されていて、およそ6000人の町民が全国各地で避難生活をしています。

ドキュメンタリー映画『盆唄』から

「ご先祖さま、震災で亡くなられた皆さま、一緒に踊ってください」

「盆唄」とは、双葉町に古くから伝わる、先祖代々受け継がれた民謡で、盆踊りの際に唄われる唄のことです。しかし、震災以降、双葉町が帰還困難区域に指定され人々が故郷から離れてしまったことで、この「盆唄」はいま、存続の危機にあります。町を離れ、新たな生活を歩みだす人がいる中、この作品は、失いかけている文化をどう継承していくかがテーマとなっています。

ドキュメンタリー映画『盆唄』から

「双葉の盆踊りが大好きですができねーのは、うんと残念です。」
「やがて双葉町が復活した場合にこれが本物の双葉盆唄なんだというふうに教えてほしい。」
「胸一杯で何だか出てこないわ。」
「どんな形でもいい。「盆唄」を後世に伝えたい。」

その思いを胸に行動を起こした人々の姿を捉えたドキュメンタリー映画です。映画が公開されると、静かに、観る人の心に届きました。

『盆唄』を観た女性

「未来に繋ごうという意志を強く感じて、私は何度も涙が出ました。すばらしい映画でした。」

『盆唄』を観た男性

「ふるさとに戻りたいという気持ちがすごく伝わるすばらしい本当に。あっという間の映画の時間だったなという感じがしました。観に来て本当によかったです。」

作品を手掛けた中江裕司(なかえ・ゆうじ)監督は、どのような思いで、この映画を撮影したのでしょうか。『日曜スクープ』はお話を伺いました。

中江監督

「双葉の人たちも常に自分たちが被害者と思って生きているわけではなくて、先に希望を抱いて生きられているので、その事を何とか映画にできないかなというふうにずっと思っていました。」

中江監督が、この地にこだわったのには、ある理由がありました。実は、双葉町がある福島県浜通り地方は、古くから「民謡の宝庫」と呼ばれていました。北部の相馬(そうま)には「相馬民謡」。南部のいわきには、「じゃんがら念仏踊り」。その真ん中に位置する双葉は、両方の影響を受け、民謡が親しまれてきた地域だったのです。

■“文化”を取り戻す意味

中江監督

「自分たちの土地をもう一度取り戻すというか文化を取り戻す。音楽、文化を取り戻す事をもう一回やろうというふうに(双葉町の人たちが)再トライされていったようなふうに、僕は感じながら横でカメラを回していました。」
「村、町のことをどう伝えていくかということを盆唄という盆踊りというものに託したんだと思います。」
「文化を再生させることで、人は立ち直ることができる。」

その様子を描きたかったと、監督は言います。

中江監督

「各地の映画館でこの映画を観ながら踊ってもらえるような映画の作り方にしたので是非踊ってもらえると嬉しいです。」

双葉の人たちは、毎年お盆の時期になると、それぞれの避難先で集まり、やぐらをたてて盆踊りを行っているということです。
映画「盆唄」は、現在、テアトル新宿、大阪・テアトル梅田、沖縄・桜坂(さくらざか)劇場などで現在上映中。その他の地域でも順次公開されていきます。

(2019年3月10日放送)

『盆唄』(c)2018 テレコムスタッフ 2019年2月15日(金)より
テアトル新宿ほか全国順次ロードショー!フォーラム福島、まちポレいわきも同時公開

■『盆唄』中江監督インタビューSP

『日曜スクープ』による、ドキュメンタリー映画『盆唄』の中江裕司監督インタビュー、ロングバージョンです。

Q:盆唄という双葉町の文化がキーワードになったと思ったのですが、どんな思いで映画を作りましたか?

中江監督

震災で、原発事故で被害にあった双葉の人たちを撮るということがスタートだったんですね。皆さんの今、置かれている厳しい状況というのはどうしても映ってしまう。ただそれだけで映画を終わらせるわけにはいかないと思ったんです、何とか希望を描きたい。双葉の人たちも常に自分たちが被害者と思って生きているわけではなくて、先に希望を抱いて生きられているので、そのことを何とか映画にできないかなとずっと思っていました。

Q:盆唄というのは双葉町の人たちにとって、どういう存在だったんですか?

中江監督

双葉の人たちにとっては自分たちのソウルでもあるので、単なる歌謡曲とは違って、ずっと祖先から受け継いで来た唄です。祖先から受け継いだ唄ってことは、今度、未来に子孫に伝えていかないといけないという唄でもあるんですね。それは今、双葉の人たちが置かれている状況とあいまって、使命感に駆られて、いかにして残していけるかということを皆さん考えられているんじゃないかなと思います。

Q:映画の中でも(双葉町から避難した)横山さんたちは、一見、立ち直っているように見えるんですけど、それでも失われつつある文化を必死に彼らは守ろうとしていて、その中から見えた復興の課題が見えたと思うんですけど、そちらについてはどうですか?

中江監督

立ち直っているということではないんですね。自分たちが生まれ育った土地、先祖も住んでいた土地に帰れないという状況の中に彼らは置かれているので、その中でどうやって自分たちの思い、個人だけではなくて自分たちの一族ですね、村、町のことをどう伝えていくかということを盆唄、盆踊りに託したんだと思います。盆踊りというのは一人ではできないんですよね。コミュニティーがあって、みんなが集まらないとできないものだから。逆にそのことが皆さんにとって、それをやることでみんなの絆が深まって未来に繋がって行ったのではないかと思っていました。

■盆唄が持っているチカラ

Q:帰還困難地域で、今まで先祖から受け継いで当たり前のようにやってきた盆唄が避難によって大変な状況に置かれたということですね。

中江監督

コミュニティーが双葉町に戻れないので、そのことによって盆唄をやれる機会が失われたわけですね。それを双葉でなくとも仮設住宅でも他の場所でもやろうと思って、それを実際にやったことで、盆唄というものが持っているチカラというものを双葉の人たちも再認識していったように思うんですね。映画は3年間撮っていましたので、最初、撮り始めたころは、双葉の人たちは、絶望されているところもあったんです。自分たちはもう終わりだ、もうこのまま自分たちの街も消えていくんだという風に思われているところがあったんですけれども、3年間撮っていく中で、彼らの中でもやっぱり自分たちの土地をもう一度取り戻すというか、音楽、文化を取り戻すことをもう一回やろうと再トライされて行ったように感じながら横でカメラを回していました。

Q:まさに最後の、櫓にみんなが再び集まるシーンですか?

中江監督

あのシーンは、実際には双葉に戻れないですから、双葉ではやっていないのですが、ここは双葉ですよ、100年先ですよって言って撮りました。震災で亡くなった人もご先祖様も、双葉の人たちもみんな帰ってこれましたと。100年先ですから、だから1万人ぐらい周りで踊っているので1万人踊らせてくださいと言って撮ったシーンですね。

Q:ご自身が最も印象に残ったシーンはありますか?

中江監督

最初に横山さんが帰還困難区域に入られ、横山さんの山小屋に太鼓が転がっていたんですよね。これ、音出るかなって試して打って、ドンドン太鼓を打ただして、それまで横山さんは、俺にやれる事っていったいなんだろう、とおっしゃっていたのが太鼓を打ちながら、どんどん横山さんの気持ちが変わっていかれるのを、僕も感じて横で撮影しながら涙が出てきて…。横山さん自身の中で、何かが変わり始めたような気がしました。この時、映画を撮ることが出演していただいた方の背中を押すこともあるんだなと思って、強い気持ちになれたのを覚えています。

Q:今まで抱いていた被災地のイメージと、撮影してみて変わったところはありますか?

中江監督

ひとつは、原発事故で避難されている方々のことを全然知らないと、「つらい」なって思いがちなんですけど、もちろん「つらい」のは前提なんですけど、ずっと「つらい」思いをして下を向いて生きているわけでは当然ない訳ですよ。前を向いて笑いながら生きられているわけですよね。その姿を映すことが、いま避難されている方とか、そうじゃなくてもつらい状況に置かれている人にも勇気を与えられるんじゃないかなという風に思いました。もう一つは双葉町の中の帰還困難区域の中に入った時に、最初撮影に入った時っていうのは中に入ると誰もいないわけですよ、自然の音しかないわけですね。全部植物に覆い尽くされていっているわけですよ。その時に人間が作った物をもう一回、人間がやった失敗だと思うんですよね、原発事故って、そのことを自然がもう一度再生しようとしているのかなっていうぐらい自然の力を感じました。ただ、そこで線量メータだけは振れるわけですよ、それを人は全然感じ取れないってことに、すごい逆に怖いのかもしれないって感じましたね。

Q:それは一見、自然は生きていて生き生きとしているんだけど、日常が映っているんだけども、実際メーターを見ると現実を突き付けられたということですか?

中江監督

メーターが振れるということが何を意味するのか、人間にとって何を意味するのか、本当に危険なのかも分からないっていう、何が正しくて何が間違っているかとか、何が善で何が悪かっていうのが分からなくなる土地って言うのが、双葉その帰還困難区域なのかなってと言う風にも思いました。その事を日本の人間として、もう一回考えて、この土地が何を生み出して、この土地がどうなって行くのかというのは、これからの日本にとって、とても重要な事だなって風に思っています。

■撮影を決意した理由

Q:この映画撮ろうと思った理由とは?

中江監督

この太鼓のリーダーである、横山さんに出会ったことです。横山さんがものすごく魅力的なので、最初は絶望されていましたけども、映画の中でどんどん変わって行かれるので、その事を目の当たりにしたことで、これは映画に出来るのではないかなと思いました。

Q:盆唄をどんなふうに描きたかったですか。岩根さん(写真家・岩根愛さん『盆唄』アソシエイトプロデューサー)とお話して、双葉盆唄って、この機会がなかったら、彼らにとって盆唄は盆踊りの歌と呼ばれていて、この映画をキッカケにみんなで相談して双葉盆唄という曲名にしようと。そのような盆唄を映画の中では失われていくっていう風に描きたかったのか、それを元にみんなが信じているものって描きたかったのか。

中江監督

双葉盆唄は元々、双葉だけのものですよね。僕はこれが全国に鳴り響くってことをイメージしていました。失われていくのではなくて、逆に広がって行く。実際にフクシマオンドがハワイにいって、どんどん広がって行くように、双葉盆唄が世界に向かって広がって行けばいいなっていう風に思っていたし、そのことがこの映画をエンターテイメントにしてくれるんじゃないかとっていう風に思っていました。

Q:岩根さんから話を受けたじゃないですか。そもそも、その時すぐ撮ろうと思いましたか。

中江監督

岩根さんから、福島とハワイの盆ダンスをやっている人たちの交流を自分は写真とかで撮っているので映画にできないですかって言われたときに、僕には福島にもハワイにも縁がないので自分はできない、と最初に断っていたんですよね。ただ、沖縄のミュージシャンのBIGINのほうからハワイ移民のドキュメンタリーを撮ってくれと言われて、それを撮り始めたことによってハワイ移民の日系移民の人たちにご縁が出来たので、自分もこの映画を撮っていいのかなと思い、そこでやっと重い腰を上げました。

Q:そこで横山さんと出会って、ですか?

中江監督

最終的には横山さんと出会って、もっと横山さんと一緒にいたい、この人と仕事したいっていうのが強かったですね。

Q:魅力的なものを感じました?横山さんから。

中江監督

そうですね、圧倒的に面白い人だなって、僕の云う事を何にも聞かないんですよね。

Q:横山さんは?

中江監督

そう、その事が面白いんですよね。僕の言う事を聞いてくれる人は面白くないじゃないですか、僕にとっては。言う事を聞かないから、言う事を聞かないということは、その人の中にスジがあるわけじゃないですか、芯があるわけですよね。その芯がすごく魅力的に見せてくれるじゃないかなと思っていますけどね。

■「奇跡がパズルのように合わさって」

Q:パンフレットの中で、監督は勉強するために福島の図書館に行って浜通り地方の事を色々調べていたと書いてあったんですけども、そこでどんなヒントを得たんですか。

中江監督

何らかの希望を描くために、先人たちに、その双葉の人たちも必ずどこからか来ていると思っていたんですよね。人間全員移民じゃないですか、どこの人も、どこからかは来ていますよね。そういうことが資料にないかなと思って調べていると、浜通りの人の3分の1か4分の1ぐらいは北陸からの移民だっていうのがわかって来たんですよね、それをちゃんと書いた共同資料があったんですよね。同人誌みたいな資料なんですけど。それをコピーして持っていて、ハワイに行かれた踊りのメンバーの井戸川容子さんに会った時にその話をしていたら、その僕の資料を見て、なんで持っているのって言うんですよ。これ書いたの自分の父だよっておっしゃって、この映画ってそういう色んな偶然が重なって奇跡的なことがパズルのように合わさって、やっとできた映画だなっていう風に思っていますね。

Q:しかも浜通り地方って民謡の宝庫と呼ばれているんですよね?

中江監督

浜通りの北の方には上に伊達藩があるわけですよね、そこの行き詰まりの所が相馬藩で、そうすると北に行くところに唄とかって溜まって行くんですよね。なお且つ、南の方にはいわきがあって、いわきの方にはジャンガラとかまた別の芸能があって、それが混じり合うのが双葉で、両方の影響を受けているんですよね。ジャンガラもあって相馬の民謡もあって、だからすごく混ざり合いながら。

Q:交差の地域に双葉あって混じり合ったということですか?

中江監督

そう、逆にそれは耕地がなくて貧しい土地でもある。貧しい土地であればあるほど民謡や芸能と言うのは盛んになるんですよね。実は、人ってやっぱり豊かではなくて、お腹がすいているから食べ物が欲しいわけではなくて、お腹がすいているからこそ楽しく歌ったり踊ったりしたいのかなって言う風になんか僕は考えていますけどね。

Q:撮影して苦労したってことありますか?

中江監督

ドキュメンタリーは撮り始めるのは簡単なんですけど、いつ撮り終えるかわからないんですよね、だからある意味何年間、3年撮っているんですけど、ある一定の緊張感の中にずっと置かれ続けるというのは、苦労と言えば苦労なんですけど、映画を撮るということはそういうことなので、その覚悟はしていますね。

■「人は力強く生きていくんだと・・・」

Q:この映画を通して社会に気づいてほしいものはありますか?

中江監督

状況がどんなに厳しくても…。日本は、原爆が落ちたり、戦争があったり、僕は沖縄に住んでいるので沖縄戦も大変な状況で、色々人生つらい事があった中で、今回の原発事故って大事件だと思うんですよね。今でも数万人の人が避難せざるをえないという状況でなんですけども、でも、人は力強く生きていくんだという、そこに音楽とか文化とかがそれを後押しして、力強く生きていくんだという様子を見ていただければ、すごい嬉しいと思います。

Q:これからご覧になる方へのメッセージをお願いします。

中江監督

震災で被災された方々の映画なんですけども、すごく皆さん前向きに…。音楽映画になっていると思うんですね、日本の「ボミアン・プソディー」じゃないかと言われたりしていますが、最後の盆踊りをやるシーンに皆さんの気持ちが託されて、とても前向きに楽しい映画になっていますので、各地の映画館でこの映画を見ながら踊ってもらえるような映画のつくり方にしたので、是非踊ってもらえると嬉しいです。