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#235

熊谷6人殺害・国賠訴訟控訴審 橋本大二郎さん意見書全文

「地域の安全と安心を守るために… 問われる“ものの見方”」

■熊谷6人殺害・国賠訴訟控訴審 橋本大二郎さん意見書全文

2015年9月、埼玉県熊谷市で起きた連続殺人、熊谷6人殺害事件で、妻と2人の娘の命を奪われた加藤裕希さんは、当時の埼玉県警の対応を問う、国家賠償請求裁判を起こしています。加藤さんが逆転勝訴を目指す控訴審には、当時『ワイド!スクランブル』MCとして、事件を報じた橋本大二郎さんが意見書を提出。この裁判について、大二郎さんは「地域の安全と安心を守るためにはどうあるべきだったかという、ものの見方が問われている」と指摘しました。大二郎さんの意見書全文を掲載します。

■平成30年(ワ)第2193号 国家賠償請求事件に係る意見書

■第1 私の経歴と意見書を提出するに至った経緯

私は、NHKの記者を20年、その後高知県の知事を4期16年、さらに、テレビ朝日の情報番組の司会を4年半務めた経験があります。と言いますと、取材する側とされる側、まったく違った内容の仕事を体験したと思われがちですが、私は決してそうは思いませんでした。と言いますのも、私は、長く社会部系の記者をしていましたので、事件事故や気象災害から、地域経済、行政、司法、福祉、教育、環境など、世の中の森羅万象を対象に情報を取材し、その真偽を確認した上で、その中から視聴者に伝える意味があると思われる情報をまとめて、わかりやすくお伝えをするという仕事をしていました。一方の知事という仕事も、事件事故や気象災害をはじめ、世の中の森羅万象にわたる情報の中から、地域の方に必要な情報をお知らせし、またはその情報をもとに、予算や政策をお示しする仕事でした。つまり、報道記者の仕事と知事の仕事は、一見、取材する側とされる側に、相対しているように見えながら、世の中の森羅万象を対象に情報を集め、その真偽を確認した上で、その情報を地域住民のために生かしていくという仕事のプロセスに、違いはありませんでした。ただ、その出口・アウトプットとして、お客様である地域の住民にお届けするものが、記事やリポートなのか、それとも予算や政策なのかという違いがあるにすぎませんでした。このように、仕事のプロセスは基本的に変わらない、二つの分野の仕事に長く携わった中で、私がいつも心に留めていたのは、取材し報道する立場の場合も、行政の長という立場の場合も、自分が携わる地域の住民の皆さんの、安全と安心に寄与したいという思いでした。

私が、平成27年9月に埼玉県熊谷市の住宅街で起きた、連続殺人事件の報道に関わったのは、テレビ朝日のお昼の情報番組「ワイドスクランブル」の、司会を務めていた時のことでした。当初、夫婦が住宅の二階の部屋で殺害された事件(田﨑事件)が発生した際には、顔見知りの犯行だろうかといった視点で事件を見ていましたが、その二日後には、同じ熊谷市内の住宅街で、母親と娘二人が自宅の室内で殺害されるという大変痛ましい事件が起きましたため、一連の事件を印象深く記憶しています。また、このため、その後のジョナタン元被告に係る刑事事件の流れや、本件国家賠償請求事件の行方にも大きな関心を抱いてきました。こうしたことから、本件国家賠償請求事件について、令和4年4月15日に、さいたま地方裁判所で言い渡されました判決内容も、つぶさに読ませていただきましたが、私が、取材し報道をする立場や行政の長としての立場、それぞれの立場で大切にしてきました、地域住民の安全と安心に寄与するという視点から見て、大きな疑問と問題点を感じましたので、意見書としてまとめさせていただきました。

■第2 取材し報道する立場の経験から見た、本件事件の一連の流れ

まず、取材し報道する立場から、私が出演していました「ワイドスクランブル」での、この一連の事件の扱いを振り返ってみますと、田﨑夫妻が殺害され遺体が発見された、9月14日の翌々日9月16日の番組で、ゲストのコメントをまじえて報道していますが、この時警察から発表されていた事実は、①夫妻が二階の洋間で血だらけになって倒れていたこと、②上半身に複数個所の刺し傷があったこと、③凶器は刃物とみられるが現場からは見つかっていないこと、④殺害された妻の携帯がなくなっていたが、財布は残されていたことで、この後、無差別の連続殺人事件が起きうる危険性を感じさせるような内容は、まったくありませんでした。このため、番組としてのコメントも、顔見知りによる犯行の可能性を指摘したものになっていました。

しかし、この時すでに警察は、事件現場の近くで、車に乗った外国人の姿を見たとの目撃情報をもとに、当時捜査線上に浮かんでいた唯一人の外国人であるジョナタン元被告に、強い関心を示していました、このことは、さいたま地方裁判所の判決でも認定されている通りです。また、ジョナタン元被告が熊谷警察署に連れてこられた時点から、警察は、ジョナタン元被告に提出を受けたパスポートとともに、在留カードも保管していたわけですから、在留カードに記載された住居地(所沢市)から判断して、当人が熊谷市内の地理に詳しくないことを容易に知り得たわけですし、あわせて、日本語が片言なため、コミュニケーションの疎通を欠くという、対人関係の上での危険性をはらんでいたことも把握していたはずです。

さらに、今回意見書を書くにあたって、あらためて、さいたま地方裁判所の判決で認定された、ジョナタン元被告の当日(平成27年9月13日)の行動をたどってみましたところ、熊谷市石原に所在する熊谷警察署から「行方をくらました」後、1時間30分後に、同じ石原地区内の住宅の物置に侵入していたところを見つかって「逃走」、続いてその30分後には、やはり石原地区内で、住人に対して「カネ、カネ」と金銭を要求したものの、断られたためその場から再び「逃走」、そのわずか2分後に、2軒隣の住宅の敷地内に立ち入って110番通報されるというように、不審な行動を繰り返していたことがわかりました(「」内の表現は、判決で認定されたもの)。続いて、この翌日9月14日に、熊谷市見晴町の自宅内でご夫婦が殺害された先述の事件ともども、判決文に出てくる住所を熊谷市の地図で確かめてみましたが、熊谷警察署を起点に、JRと秩父鉄道の線路を挟んで南に荒川の堤防沿いまで、極めて限られた範囲内で、行動がエスカレートしてきた様子が、地図の上からもうかがえました。

その一つ一つの出来事を切り取って、この時点ではまだ、犯人像について確定的なことは言えないといった、静止画的なものの見方もできますが、一連の出来事を、熊谷市石原から見晴町の地図にプロットしながら、時系列の流れの中で見ていけば、自ずと、その次に来るかもしれない危険性に気づくのではないかと思いました。それに加えて、警察は、ご夫妻が殺害された事件現場の室内に残されていた、アルファベット様の文字とも見られる血痕に、当然関心を持っていました。もちろん、後々犯人の特定のために、秘密の暴露に当たる証拠を残しておくなど、捜査上の理由から秘匿すべき事実は数々あったでしょうし、夫婦殺害事件(田﨑事件)の時点では、犯人像を特定できていなかったことも確かでしょう。しかし、その一方で、①被害者の家族への聞き取りなどによって、顔見知りの犯行の線が薄くなっていたこと、②現場近くに、警察署から逃走したまま行方が分からなくなっている、地元に土地勘のない外国人がいたこと、③その外国人と同一人物と疑うに足る男が、現場周辺で、住居侵入など不審な行動を繰り返していたこと、④犯行現場の室内にアルファベットのような血痕が残されていたことなど、わかっていた情報をつなぎ合わせてみれば、動機の分からない無差別殺人の可能性と、その後、類似の事件が発生する危険性は、十分につかみ得たはずです。逆に、そうした可能性や危険性に視野を広げて、次の犯罪の発生を食い止めていくのが、事件捜査と防犯の常道ではないかと思います。

この事件(田﨑事件)の場合、9月14日の警察発表の際に、どのような表現を使うかの具体論は別としても、顔見知りによる犯行ではない可能性があることや、警察署から逃走した後、住居侵入など不審な行動を繰り返して、行方が分からなくなっている人物がいること、事件現場の室内に、通常の殺人事件とは異なった態様が見られることを知らせるだけで、報道する側が事件を見る視点は大きく変わったはずです。その結果、報道する側が、単なる怨恨や物取りとは違う、特異な事件の可能性や危険性を伝えることが出来れば、地域の住民の皆さんの警戒心は遥かに高まりますので、その後、先述した狭い地域の中で相次いで起きた二つの殺人事件を、未然に防ぐことが出来たのではないかと、一連の事件の報道に携わった者として、大変悔やまれてなりません。

■第3 本件事案を挟んだ二つの通達の意味するもの

第一審でも取り上げられました、平成27年10月29日付けの警察庁刑事局長等からの通達が、「犯人が凶器を持ったまま近隣に潜伏逃走している可能性があるなど、連続発生の恐れのある重要凶悪犯罪の発生時」と指摘するのは、まさに、平成27年9月14日に、夫婦二人が殺害された事件の発生時に当てはまるもので、もしこの時点で、類似事件が連続して発生する恐れに、何らの可能性も危険性も感じていなかったのであれば、それは、警察としての職務遂行上、不法な行為であったと言わざるを得ません。ただ、この通達は、本訴訟にかかわる連続殺人事件が発生した後に出されたものですから、本事案への反省から発せられた通達だと受けとめるべきで、本件の法的な判断の材料には、なり得ないものかもしれません。であれば、一連の事件が起きる一年半余り前、平成26年2月27日付けで、警察庁生活安全企画課長らから、各県の警察本部長などに宛てて出された通達はどうでしょうか。

この通達は、「地域住民等に対する、防犯情報の提供の推進について」と題する通達で、前記平成27年10月29日付けの通達とは異なり、地域の住民への情報提供の在り方に力点が置かれた通達ですが、それだけに、犯罪捜査にあたっての情報提供という公権力の行使に、手抜かり(違法性)があったかどうかを具体的に検証するには、重要な手掛かりになると思います。そうした視点でこの通達を読みますと、まず、①情報の受け手(地域の住民)の立場に立った情報提供、②地域の住民に自主的な防犯行動を促しているかという観点、③訴求力のある(効果的な)情報提供、の三点の必要性をあげています。その上で、「特異な手口による事案、連続発生している事案等のうち、隣接する地域に波及が予測されるものについては、隣接地域の地域住民等の、先制的な自主防犯行動の観点から、積極的な提供に努めること」「その情報に接したものが、防犯対策を講じる上で参考となるように、発生場所や発生時間に加え、被害にあった時の状況が具体的にわかる情報や、被害の分析結果に関する情報などを提供すること」など、必要な情報提供の内容を詳しく例示、かつ指示しています。あわせて、個人のプライバシーへの配慮や、情報セキュリティの上での留意点にも触れながら、インターネットを含めた可能な限り複数の手段を使って、情報が確実に受け手に届くように配慮することも求めています。

それでは、なぜこうした通達が出されたのかですが、この平成26年2月27日の通達の背景には、犯罪捜査の重点が、従来からの、現場での綿密な鑑識作業や、聞き込みによる目撃情報や足取り捜査の積み重ねに変わって、防犯カメラやドライブレコーダーの映像、さらには、スマートフォンに残されたSNSの履歴の解析などに、置き換わったことが関係しているのではと考えます。それはどういう意味かと言えば、すでに、捜査のプロフェッショナルの力だけでは、犯罪の続発の防止も、起きた事件の解決も難しくなっているということで、より多くの情報を素早く地域の住民に提供することによって、事件捜査や次なる犯罪の防止を円滑に進めることが、警察にとって、重要な責務になっていることを表しているのだと思うのです。

かつて、プロフェッショナルの力だけで、捜査活動も防犯活動も十分に役割を果たせた時代には、地域住民への情報提供は、いわば従属的なサービス業務として、最低限の情報を提供していればそれで事足りました。しかし、様々な分野での情報化が進み、情報が瞬時に伝わり広がる現在は、事件の捜査にあたっても、次なる犯罪の防止にあたっても、情報提供は最低限の従たるサービスではなく、警察の主たる責務の一つになっていることを、平成26年2月27日の通達は示していると思います。また、地域の住民に危険性を伝える手段については、第一審でも様々な角度から検討がなされていますが、前述しましたように、まずはマスコミの報道を通じて、事件の特異性や連続して発生する危険性を伝えることが出来れば、事件のその後の展開に対して、大きな抑止力になったことは間違いありません。この点で、「可能な限り複数の提供手段を用いるなどして、確実に情報の受け手に届くよう配慮する必要」を指示した、平成26年2月27日付けの通達に沿った判断がとられていたとは、到底考えられません。このように、この通達の趣旨に照らして見た場合、提供された情報の内容も、情報提供の手段も、公権力の行使にあたって、違法性を免れないものだったと思います。

繰り返しになりますが、9月14日の夫婦殺害事件(田﨑事件)の発生の時点で、当時得られていた情報から、類似事件の発生の危険性に思い至らなかったのであれば、それは警察という公権力の行使にあたる公務員が、捜査という職務を行うについて、過失によって他の住民に損害を与えたことになりますし、その危険性を感じながら、差し迫った危険とは言えないなどの理由で、その危険性を地域の住民に伝えていなかったのであれば、それは犯罪の発生を防ぐための、防犯という職務を行うについて、過失または故意によって住民に損害を与えたことに当たると思います。実際には、そうした反省があったからこそ、一連の事件発生後の平成27年10月29日付の通達で、「連続発生の恐れのある重要凶悪犯罪の発生時」の対応について、あらためて指示をしたのではないでしょうか。

■第4 知事としての経験から学んだこと

もう一つ、知事としての経験をもとに、冒頭に申し述べました、地域の住民の皆さんの安全と安心を守るという視点から学んだことを、何点か申し述べますが、何かただならぬことが起きている時には、行政、司法、教育など各機関が、おのれの守備範囲や権限だけにとらわれることなく、危険を回避するための行動に移ることが肝要です。それは、集中豪雨などの災害対応にあたって顕著なことですが、これは県の権限だ、いや市町村の権限だと譲り合っていたのでは、結果として、地域の住民の安全と安心を守ることは出来ません。そのことは、事件や事故が発生した際の防犯活動においても同様で、警察、消防、市役所、教育委員会といった所管や権限を壁にして、それぞれを人任せにしてしまうのではなく、幅広く連携して取り組む心構えが必要になります。ただ、そのためには、その案件に対して第一次的な責任と権限を持つ組織が、本件のような事件であれば警察が、どれだけ地域の安全を守るとの意思をもって、関係機関に情報を伝えるかが鍵になります。

それが、形式的な情報提供にとどまるのであれば、それを受けた機関も、マニュアルの範囲で、情報を各家庭や地域の住民に届けていくことにとどまりますので、こうした形式的で最低限の情報提供を前提に、直接的、即時的に個人の法益を保護する効果を生じない(さいたま地方裁判所の判断)と断じても、それは前提が間違っているからだと言わざるを得ません。もし、警察が、9月14日の夫婦殺害事件が発生した時点で、持っていた情報をもとに、類似事件の発生という事態から地域住民の安全と安心を守るという、強い意思を持てていれば、それを受けて地元の関係機関は、地域の住民や各家庭に対して、より具体的で効果的な情報の伝達に取り組んだはずです。このことは、前述しましたように、マスコミへの発表内容が、いかに現場の切迫感を反映したものになっているかどうかで、マスコミの受け止め方が大きく異なってくることと同様です。言うまでもなく、地域住民の日々の安全と安心は、警察の捜査や防犯の活動によって守られていますが、日常とは異なる大きな異変が起きた時に、地域がどれだけ、自らの身を守る力を発揮できるかは、その異変を、警察がいかに的確にまた迅速に、地域の住民に伝えていくかにかかっているのです。

それでは、そうしたいざという際の警察の対応に、過失があったかどうかの判定は何を基準になされるべきかですが、そのことが予見できたかどうかという予見可能性や、さらなる異変が差し迫っていたかどうかといった切迫性の判断は、当然重要な基準の一つになります。繰り返しの指摘で恐縮ですが、ジョナタン元被告が、熊谷警察署から行方をくらましてから、その翌日に、市内の住宅に入り込んで、室内で夫婦二人を殺害した事件までの一連の行動の流れと、この間に集まった情報を基にすれば、同様の事件が起きかねないという予見可能性は十分にありましたし、殺人事件にまでエスカレートした犯人の心理を考えれば、事件再犯の切迫性も、十分に感じられてしかるべきでした。ただ、こうした時、なお詳しい発表をためらわせる要因があるのも確かです。それは、不審な行動をする人物が犯人とは特定できない時点で、事件との関連性を紐づけて推測することが、名誉の毀損にあたりはしないかとの不安、もう一つは、必要以上の不安を地域の住民に与えかねないとの不安です。

事件ではなく、災害に際してのことですが、これと似たようなジレンマを、高知県の知事時代に感じたことがありました。それは1998年9月に高知県中部を襲った集中豪雨で、高知市東部の広い範囲が水没する状況に陥った時のことです。その地域にあったメッキ工場から、シアン化合物が流出したとの可能性・危険性に、どう対処すべきかを県庁内で議論をしました。所管の部署の担当者は、当該事業所の信用を傷つけないかという不安と同時に、井戸水なども利用している周辺並びに下流域の住民が、パニックに陥る恐れがあるのではないかと、発表に慎重な姿勢を示しました。しかし、万一の場合の地域住民の安全と安心を考えて、迅速な発表と同時に、井戸水の使用停止などの対応策の徹底を指示しました。それは、地域の住民の安全と安心を第一に考えた時、有毒なシアン化合物によって、万一の事態が生じた場合の重大性は、当該事業所の名誉や、地域住民が一時的に感じる不安とは、比べ物にならないと考えたからです。このケースでは、水没した地域に有毒物質があったとの情報を持っていたのは、ひとえに行政の側で、地域の住民は、行政がそのことをお知らせしない限り、その危険からいかにして身を守るかを、考える術も持っていなかったことになります。このことは、警察の事件捜査と地域住民との関係でも同様で、だからこそ、積極的な情報提供の必要性を認めた、平成26年2月27日付けの通達が出されたのだと思います。また、地域の住民の安全と安心を守るという視点から見る場合、大きな危険に対する予見可能性や切迫性の判断の是非は、結果としてもたらされるかもしれない損害の大きさと、比較検討することが必要だと思います。ですから、結果として起きる損害が甚大だと想定される場合には、その危険性を予見する力や、発生が切迫していることを感じ取る力にも、より厳しい基準が求められるべきだと考えます。そうでなければ、想定外だったとか、そこまでのことは予想できなかったという、一般的な不法行為と同様の基準を理由に、大きな損害を招いた出来事の、責任の追及が難しくなってしまいます。一方、万一の場合被害を受ける立場にある地域住民は、自らの力で事件発生の危険性や、その切迫度合を知る手段を持っていませんから、そこまでは想定できないと言った主張が許されるのであれば、地域の安全や安定を実現する上で、バランスを欠く判断になりはしないかと思います。

いずれにせよ、先ほど縷々申し述べましたように、警察庁は、平成26年2月27日付けの通達をもって、事件に関する積極的な情報の提供が、警察の業務に与えるマイナスよりもプラスの効果が大きいことを、はっきりと認めています。さらに、そのことによって、地域住民の安全と安心が守られるというより大きなプラスの効果が加わるわけですから、プラスとマイナスを測る量りの目盛りは、地域住民を重視する側に大きく振れていると思います。こうした考え方が、地域の住民の安全と安心を預かる、知事という仕事を通じて学んだことでした。

■第5 法律がもたらす効果

最後に、警察や司法の取材も担当したことのある報道記者としての経験や、幅広く法律問題と関わった知事としての経験から、そもそも法律がもたらす効果は何だろうかと考えてみました。法律には、個別の紛争の解決や正義の実現など数々の効果があると思いますが、それらがあいまった反射的な効果として、国家または地域、並びに住民の、安全を守り安定を図ることが、法律の大きな役割だと思います。本裁判で問われている国家賠償法も、第一義的な目的は、公務員の行為によって損害を受けた人を救済することにありますが、その反射的な効果として、公務に対する公務員の注意力を高め、それによって地域の安全と安定を守っていくとの、含意が込められていると思います。

もとより、あらゆることを、地域の安全と安定の観点から判断すべきだといった、国家主義的な視点に立つものではありませんが、その一方で、あらゆる法律的な争いにおいて、場合によっては、予見可能性や危険回避の可能性といった個別の検証だけでなく、地域の住民の安全と安定という俯瞰的な視点に立ち戻って、検証することも重要だと思います。

本件に当てはめて考えれば、連続する無差別殺人の危険性があったにもかかわらず、報道機関や地元の関係機関にそのことを知らせるといった、具体的な防犯対策を取らなかったことが、地域社会にいかに大きな損害を、また大きな不安を与えたかを俯瞰的にとらえた上で、公務にあたっての過失の有無を判断することが、再びこうした出来事を繰り返さないために取り得る道ではないかと思います。またそうした視点で本事件を見直すことが、事件発生から1ヶ月余りの間に、3万7千人を超える署名によって、県(警察)に対して徹底した検証と説明を求めた、地域住民の声に答える道ではないでしょうか。

さいたま地方裁判所の判決は、まとめの部分で、「原告の無念さは察するに余りあり」とした上で、「埼玉県警の責任を問う心情はよく理解できる」としています。その裁判所の心配りは大切なことですが、本件が、情状を考慮すべき刑事事件ではなく、国家賠償請求であることを考えた場合、犯罪被害者への同情で、何かが変わり得るものではありません。むしろ、こうした無差別の連続殺人によって家族を失った、犯罪被害者による賠償請求という形であっても、その根本では、地域の安全と安心を守るためにはどうあるべきだったかという、ものの見方が問われていることに、目を向けるべきではないかと思います。

令和4年7月25日
元高知県知事
橋本 大二郎

■控訴審の第一回口頭弁論が10月19日、東京高裁で行われ、遺族の加藤裕希さんが法廷で意見陳述を行いました。加藤さんの陳述書の全文はこちらです。

⇒ 「これ以上、遺族を見捨てないでください」熊谷6人殺害事件の遺族、加藤裕希さんの意見陳述全文

■日曜スクープでの放送内容はこちらです。

⇒ 2022年10月23日放送 熊谷6人殺害“警察の対応を問う”控訴審開始 遺族の決意と争点